2010年10月21日木曜日

とりあえずこっちは更新停止

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2010年9月29日水曜日

精華大学紀要に論文を「査読論文」として掲載しました。

中川克志 2010 「[査読論文] 実験音楽の成立と変質-ケージを相対化するロジック」 『京都精華大学紀要』37(2010年9月):3-22。

書誌情報等は、ここを、本文はここをご参照ください。
参照:京都精華大学:インフォメーション:大学からのお知らせ:[教職員の方へ] 『京都精華大学紀要』第37号刊行のお知らせ
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この論文の目的は、Aesthetics(と京都市芸)の論文と同じくケージを相対的に距離を置いて理解すること、です。そのために、ケージ的な実験音楽に対する内在的批判として1970年代のサウンド・アート(ビル・フォンタナ)を取りあげて検討しました。

「実験音楽」は「音楽的素材の拡大という戦略」と「“音をあるがままにせよ”という原則」を持つジャンルで、フルクサスの音楽やミニマル・ミュージックに継承されることで「ケージ的な実験音楽」の系譜を形成した、しかし、その戦略と原則は齟齬をきたすものだったし(音楽的素材を拡大することで“意図的な音響”を楽音として利用することも必要となるが、それは“音をあるがままにせよ”という原則によって阻害されるという問題があった)、その齟齬は70年代以降のサウンド・アートによって明確化した、ということを主張しました。

僕の手柄は、実験音楽において音響が社会性を喪失しなければならなかった理由として「音楽的素材の拡大という欲望を追及する必要があったこと」を指摘したことだと言えると思います。

反省点は、これはあまりにも「自律的」なモデルだってことです。同時代のメディア状況とか社会的背景とかを考慮に入れていないし、現実の活動はそんなに自律的には進行しないだろうし、現実の様々な芸術活動の実相にはあまり迫れていないことが反省点です。

でも僕は、ケージとかゲンダイオンガクとかから距離をとるために、一度こういう自律的なモデルを構築する必要があったのだと思います。

しばらくはこの主題には、真正面からではなく斜めから取り組むことにしたいと思います。しばらくは、直接的に「実験音楽」の細かなデータを精査する、とかはせずに、実験音楽を研究することには重要性はあるのか、とか、アヴァンギャルド音楽について今言及することにはなんの意味があるのか、とか、そういうことから考え直すことにして、さしあたりは、クリスチャン・マークレイとか大正期の蓄音機受容の諸相とかを調べていこうと思います。

とはいえまたそのうち近いうちに、ゲティ・ミュージアムのアーカイヴに行って9 Eveningsの調査とかしたいです。
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この論文との付き合いも、前にAestheticsに載せた論文以上に長いです。

博士論文の一章と六章をまとめ直した論文で、一章の元になる論文を書いたのは博士後期課程1年目のことだし、六章の元になる論文を書いたのは留学中に書いた論文の元になる論文で、それは渡米前に城陽で結論が見えないまま書き始めた論文(Aestheticsにのったものと同じもの)なので、2003年度に書いていたものです。つまり、これ、ジョン・ケージの研究を始めた時からの付き合いになるわけです。10年以上。

うわぁ…。

ちょうどこの論文の発表場所を探していたところ、2010年度から京都精華大学紀要が査読付き論文を掲載することになったことを知ったので、2009年度に紀要論文を載せてもらったばかりだけど、またお世話になることにしたのです。

いや、こいつに行き先ができて良かった。

2010年5月7日金曜日

Aesthetics (Online Version) に論文を掲載しました。

NAKAGAWA, Katsushi. 2010. “What is 'sounds which are just sounds'? : On the Acceptance of John Cage's Indeterminate Musical Works.” The Japanese society for aesthetics, ed. Aesthetics (Online Version). 14 (April, 2010): 42-54.

美学会の国際版『美学』のオンライン版に、過去の日本語論文の英訳を掲載しました。元論文はこれです。
中川克志. 2008a 「『ただの音』とは何か?-ジョン・ケージの不確定性の音楽作品の受容構造をめぐって」 京都市立芸術大学美術学部(編)『研究紀要』第52号(2008年3月):1-11。

書誌情報等は3.学術論文 (Audible Culture)をご参照ください。本文とアブストラクトは、美学会のウェブサイトをご参照ください。
→[Abstract] [Text (PDF)]
日本語論文の英訳なので、日本人は読まないだろうけど英語圏の研究者に自己紹介するときに便利、という代物です。

この論文では、「ただの音」という表象の成立条件を確定することで、ケージの「実験音楽」を相対化しようとしました。
そのために、ケージの不確定性の音楽作品の成立条件を「音楽作品の同一性」の問題圏から考察する、ということをしました。
今読み直すと、やたらふつうのこと(ケージの「ただの音」は、そう命名された虚構に過ぎないってこと)を、かなり形式的に(音楽作品の同一性を巡る議論やL.ゲアの音楽作品論を持ち出して)議論している感もあります。

とはいえこの論文は、ケージと音楽作品概念に関する議論よりもむしろ、90年代後半以降の「音楽学的なケージ研究」に対する批判としては、今でも機能するんじゃないかと思います。それらのケージ研究が、ケージの音楽の中でも不確定性の時期以外の、「楽譜」のようなものが作られるものしか扱えないのは、ある種の楽譜中心主義イデオロギーから脱していないからだ、と批判するものとして。
とはいえ今や、必ずしも「楽譜」研究ではないゲンダイオンガク研究も出てきているようですが。

今なら、ケージを相対化するためには、違うアプローチをとると思います。ケージの音楽作品の同一性云々とかではなくて、「変な音楽」が「変」と感じられる美的条件を考える、とか。
もしかしたらこの論文は、僕がケージ的な実験音楽から距離をとるために役立ったかもしれないです。


この論文とはけっこう長い付き合いです。
もともと2003年に城陽に住んでた頃に書きはじめたものが元論文だけど、その後、色々ドタバタがあったので、発表できたのは、2006年に京都美学美術史学会で発表した時で、それを京芸大の紀要に書かせてもらいました。
これは、基本的には、その英訳論文です(多少縮小してます)。

2010年4月8日木曜日

近大の紀要に論文を書きました。

中川克志 2010 「雑誌『音楽芸術』における電子音楽をめぐる二つのレトロ・フューチャー-電子音楽とコンピュータ音楽輸入時の進歩史観の変質?」 近畿大学文芸学部(編)『文学・芸術・文化』21.2:210-236。

前の精華の紀要論文と同じで、これも去年の春に書いたものです。
書誌情報等は3.学術論文 (Audible Culture)をご参照ください。本文もあります。

2007年に博士論文を書き終えた後、とりあえず「日本でできるアーカイヴ調査」と「1960年代の現代音楽の受容状況の調査」をしたいと思って、『音楽芸術』の1950‐60年代のものを調査してそこで見つかったテーマをまとめたものです。
「電子音楽」と「コンピュータ音楽」が日本に導入された頃、1954年と1967年に書かれた二つのレトロ・フューチャーを比較することで、どんな音楽の未来が想像されていたかをまとめて比較しました。けっこう単純な議論でここから大きな展望が開けるといった類の論文ではないですが、たぶん、日本の電子音楽に関心のある少数の人には便利なものになっただろうと思ってます。

2007-2008年は50-60年代の『音楽芸術』を通読してたのですが、一昔前の雑誌は、現在と物事のパースペクティヴが違うので面白いですね。
幾つかの課題を出せたけど、それとは別に、この論文の続き(コンピュータ音楽とライブ・エレクトロニクスの受容状況を比較したもの)が、10月に出る京都造形大の紀要に載るはずです。
また「日本でできる雑誌調査」という研究手法にはまったこともあり、ちょっと別の関心から大正期の音楽雑誌を調査した成果が、京都国立近代美術館の研究紀要に出せるはずです(まだ修正中でどういうオチになるかよう分かりませんが)。

2010年2月6日土曜日

精華の紀要に論文を書きました。

中川克志 2010a 「音響記録複製テクノロジーの起源―帰結としてのフォノトグラフ、起源としてのフォノトグラフ」 『京都精華大学紀要』第36号:1-20。

がパブリッシュされたようです。
抜刷と本体を受け取りました。

去年の3月に書いたものです。
書誌情報等は3.学術論文 (Audible Culture)をご参照ください。本文もあります。
2008年3月末に復刻(?)されて、「こわい」と評判だった「1860年の声」(これについてはここ参照)を話のきっかけに、フォノトグラフ以前と以後の音響再生産テクノロジーを取り巻くコンテクストを整理しました。
1.FirstSounds.orgで公開されたスコットのフォノトグラフに関する特許文書を読んでスコットのフォノトグラフを概観し、
2.次に音を視覚化しようとするパラダイムの帰結としてフォノトグラフを位置づけるために聾教育と音響学というコンテクストに言及し、3.最後に今日的な音響録音複製テクノロジーの起点として、口モデルから耳モデルへの転換の起点としてフォノトグラフを位置づけるために、口モデルの幾つかの系譜(テレフォン、オートマタ、自動演奏楽器)を概観しました。

けっこう自分のための論文で、スターンのAudible Pastの一章を他の文献も参照しつつまとめたみたいな論文です。
でも、個人的に、この時期の音響テクノロジーのコンテクストをコンパクトに概観した文章が欲しかったので、この論文をパブリッシュ出来て良かったです。

しばらく紀要論文が何本か続けて出ます。これは聴覚文化論関連で、次はゲンダイオンガク関連。その次にサウンド・アート関連が出るかな?という感じです。まだしばらく、自分の専門領域は幾つかに分けたままにしておきます。