2009年11月27日金曜日

4.MP3と音楽のネットワーク化-3.水のような音楽?

1.とりあえず、まとめ


 音楽のためのメディアは、大まかに、レコード、磁気テープ、CD、デジタル情報(MP3)へと進化してきた。私たち消費者と音楽の間にあるインターフェースの進化を、19世紀以降の音響テクノロジーは音楽を大衆化して個人化したという物語の中で理解してみたい。安易な物語ではあるが、安易だからこそ、今の音楽を取り巻く状況や音響テクノロジーの歴史について考えるための出発点を提供してくれると思う。
 レコードは音楽を小売商品に変えた。レコード産業は音楽産業として成長し、レコードは消費者が音楽に接する身近なインターフェースとなった。レコードの登場は音楽を(楽譜を見ながら家庭で演奏できない人々にとっても)小売商品に変え、個人が家庭で消費できるモノに変えた。レコードは音楽を大衆化したのだ。
 磁気テープは音楽の生産、流通、消費を個人化した。LPレコードやラジオなどの再生メディアとテープ・レコーダーを一緒にした家庭用オーディオ・セットが発売されることで、家庭ダビングの時代が始まった。消費者が自分の好きなように、市販の音楽を扱えるようになったわけだ。さらにカセット・テープ、カー・ステレオ、ウォークマンが登場することで、音楽はいつでも、どこでも、手軽に、そして個人的に消費されるものになった。
 音はデジタル化されることで、音楽の生産、流通、消費の個人化という傾向はますます先鋭化していった。「レコードとしてのCD」が「デジタル情報のための容器としてのCD」に変化することで、音楽とそれが記録される物理的媒体との結びつきは脆弱化し、音楽はデジタル情報として操作されるものになった。そして消費者は、デジタル情報としての音楽を、自分の好きなように扱えるようになったのだ。
 MP3というサイズの小さなファイル・フォーマット(あるいはそれ以外のデジタル音声のための圧縮音声ファイルフォーマット)が登場することで、消費者は格段に容易に、(デジタル情報としての)音楽を取り扱えるようになった。MP3形式のデジタル情報としての音楽は、無限に音質劣化無しに複製されることで、またインターネットのネットワーク上で流通して時間と空間の制限を越えることで、「消費財」としての性格を根本的に変えることになった。今や、(違法な場合も含めて)音楽を入手するコストは限りなく無料に近づきつつあるし、音楽を入手したり音楽が流通する経路は根本的に変化して多様化したのだ。

2.「水のような音楽」


 こうした状況を考えると、今や音楽は「水」のようなものになった、と言っても構わないだろう。(「水のような音楽」というフレーズは、クセック・レオナルト2005が教えてくれたフレーズだ。これは日本の状況を扱うものではないが、インターネット・テクノロジーが浸透した社会における音楽について、明るい未来を描き出してくれている、魅力的な分析だ。)今やインターネットに接続できる環境下なら、安価に(時には無料で)どこからでも音楽を入手できる。インフラさえ整備されていれば、ほとんど無料でほとんどどこからでも入手できるのだから、音楽は水道水のようなものになった、と言っても構わないだろう。(CDやレコードといったパッケージ・メディアは、言わば「瓶詰めのペリエ」だ。)パッケージ・メディアが欲しければ、少しお金を払えば良い。しかし、iPhoneやスマートフォンやケータイを使えば安価に(時には無料で)音楽を入手できる。小売商品としての音楽は「水」のようなものに「も」なったのだ。

3.「水のような音楽」?


 小売商品としてのCDが「水」のように安価にどこからでも入手できるようになったのだとすれば、「パッケージ・メディア」は無くなってしまうのだろうか?おそらく完全になくなることは(少なくともまだ数年は)ないだろう。CD-Rによる複製が可能になりファイル交換ソフトが一般的に知られるようになった頃、CDの売り上げ減少に反応(?)して、「音楽の終焉」が叫ばれたことがあった。(CD-Rの違法複製やファイル交換ソフトの違法な使用のせいで)CDの売り上げが減少し続ければ、「音楽が死んでしまう」というキャンペーンだ。しかしもちろん、CDの売り上げと音楽の生死は無関係だから、音楽が死ぬわけが無い。また、音楽を作ったり演奏したり聴いたりする人間の活動を、何らかのやり方で営利活動と結びつけられなくなることもあるまいから、CDの売り上げがどれほど減少しようとも、音楽産業が死ぬこともあるわけが無い。死ぬとすれば、オンラインを経由せずにパッケージ・メディア販売に「だけ」依存する業態だけだろう。
 目に付くところで言えば、小売商品としてのCDを販売する大型レコード店や町の小さなレコード屋は確実に衰退しつつある。残念ながら、今の町の風景は、私が20前後(今から15年弱前)に知っていた町の風景とは全くの別物である。(中古レコード屋がない、という点で。)おそらく、店舗を構えている町のレコード屋が潰れていく大きな原因は、デジタル販売の増大よりもむしろ、店舗を構えないネット販売にシェアを奪われたからだろう。つまりAmazonなどによるオンライン販売のことだ。実際にモノを取り扱うコストが必要なパッケージ・メディア販売においては、店舗を構えないオンライン販売が有利なことは言うまでも無い。タワレコやHMVといった実店舗を持つ会社もオンライン販売は行っている。そしてまた、オンライン販売を行うとしても、パッケージ・メディアの販売は、デジタル・データの販売とも競合しなければいけない。価格競争の結果、パッケージ・メディアの値段が下がることは、消費者としてはありがたい。(amazonでCDを購入したほうがiTunesStoreで購入するより安い場合も多い。)とにかく、パッケージ・メディア販売に「だけ」依存する業態が難しい状況に追い込まれていくだろうことは確かだ。

 とはいえ、実際のところ、パッケージ・メディアがすぐに消滅することはあるまい。私もまだ、パッケージ・メディアと全く無縁になったわけではないし、(もはやCDを使って音楽を聴くことはほとんどないが)新しい音楽を購入する時にCDを購入することはまだ多いからだ。また、CDを購入してCDで音楽を聴き続けている友人も多い。また、そもそも音楽を水として扱うために音楽配信やネットラジオを利用するには、パソコンや携帯でインターネットに接続する必要があるが、例えば私の高齢の両親や親戚たちが、いまさらパソコンを音楽再生のために日常的に使いこなせるようになるとは思えない。それに日本の場合、(良し悪しは別にして)音楽配信やネットラジオが浸透していくには多くの点で著作権法が障壁となって立ちふさがっている。
 つまり、(少なくともまだ数年は)全ての音楽が水のように扱えるようになることはないだろう。おそらく現状と未来は「多様化した」のだ。

 私が中学生の頃、私が住んでいた地方都市では、町のレコード屋では国内版CDしか買えなかった。高校生になって外資系レコード店が進出して来て、輸入盤を安く簡単に買えるようになった。1994年に大学生になって、私は街の中古レコード屋に通うようになった。しかし1998年に大学院生になってインターネットを使ってamazonでCDを買うようになり、私はほとんどレコード屋に通わなくなった。レンタルCDを借りると、高校生の頃は磁気テープに録音していたが、大学生になってPCを使うようになってからは、MP3形式でPCに保存したりCD-Rにダビングするようになった。あるいは2008年以降、私は、スマートフォンを使い始めるようになり、今は、自分がどこにいても、You Tubeなどに接続して(音質は悪いかもしれないが)ほとんどあらゆる種類の音楽を試聴できるようになっている。(実際に外でスマートフォンを使ってYouTubeに接続することはあまりないが。)消費者としての私にとって、音楽に触れるインターフェースはこのように「多様化」し、あるいは「進化」してきた。
 「現状」を一枚岩として理解するつもりはないし、音楽の未来がどうなるかは、正直、よく分からない。分からないのだから、とりあえずは楽天的に肯定的に考えておきたいと思う。テクノロジーは、100年以上かけて音楽を私たちにとって身近なものにしてくれた。この先も、きっと何か面白いものを経験させてくれるに違いない。

2009年11月20日金曜日

4.MP3と音楽のネットワーク化-2.音楽のネットワーク化

1.音楽の入手経路の変化-オンライン上の音楽たち


 20世紀末から21世紀初頭にかけて音楽文化は様々な点で変化した。すでに90年代半ばまでに、記録メディアとしてのCD規格はファミリー・メンバーを増やし、そこに記録される音楽はPC上で扱われることでデジタル情報として操作されるものとなっていた。音楽が記録されるメディアと音楽との物理的な結びつきは脆弱化し、音楽をデジタル情報として扱うことで、音響生産・流通・消費テクノロジーは一般大衆化していた。消費者が、自分の好きなように(デジタル情報としての)音楽を扱える状況は整っていたわけだ。さらに(日本では)90年代後半にインターネット・インフラが整い、P2P技術やデジタル・コンテンツ利用技術が開発されることで、音響生産・流通・消費テクノロジーの一般大衆化の傾向には拍車がかけられたと言えよう。

 「音楽のネットワーク化」とは何だろう?それは、「音楽のデジタル化」によってすでに90年代半ばまでに可能となっていた、音響生産・流通・消費テクノロジーの一般大衆化の傾向に、1)更に何か新しい性質を付加したのか、それとも 2)その傾向を更に「激化」させたに過ぎないのか、あるいは 3)「その傾向を激化させること」こそが「ネットワーク化」の本質だったのか、どれなのかは即断できない。これは「インターネット・テクノロジー」の文化的位置づけにまつわる大きな問題だし、何よりもまだ、判断するには時期尚早の問題だろう。とにかく、インターネットのインフラ環境が整備されることで、音楽を入手するコストは安価になり、音楽を入手する経路や音楽が流通する経路はそれまでとは比べ物にならないくらい多様化したことは確かだろう。

 以下ではとりあえず、店頭でCDを買うことこそが普通の音楽入手方法だった10代を過ごした私が、1990年代末以降の音楽文化の変化の中で目に付いたものを列挙しておくに留めておきたい。

以下の参考文献


ナップスターについては、シリコンバレーの狂騒に包まれていたナップスター社の設立から終焉に至る活動を、メン2003が存分に伝えてくれている。また、1990年代以降の日本の音楽を取り巻く状況については烏賀陽2005a;烏賀陽2005bが参考になる。しかし、それ以降の、パッケージ・メディアに依存しない音楽のあり方について考えるためには、津田2004と津田のブログ音楽配信メモが最重要となる。音楽配信の日本における売上実績の数値については、本文中にもある通り、社団法人日本レコード協会のウェブサイトを参照した。また、iPodに関する言及はレヴィ2007を参照した。

1.CD-R


 PCでCD-Rを作成できるようになったこと、(パッケージは複製できないけれども)同じ音質のCD(CD-R)を複製・作成できるようになったこと。これは衝撃的な経験だった。車で聴くために、ビーチ・ボーイズやT.Rexなどその頃の私が好きだった洋楽と、友達のバンドの音源を一緒にしたマイ・ベストを作成したのが最初だったと思う。(著作権法上「私的複製」することは認められているので、CD-RやMP3を用いた音楽CDのコピーの全てが「違法」ではない。)CD-Rは、間違いなく、消費者が好きなように音楽を扱えるようになったテクノロジーだ。CDジャケットやCDレーベルは無理だが、元のCDと全く同じデジタル情報が記録されたCD-Rを消費者個人が作れるようになったのだから。
 とはいえ勿論、CD-Rはあらゆる方面から歓迎されたわけではない。CD-Rを用いた「違法」コピー(とファイル交換ソフト)は、Jポップバブルの崩壊(2000年代初頭)の主な原因とされた。日本のJポップバブルが頂点に達した1998年に、オーディオ・ディスク生産額はピークを迎え約6075億円に達した。それ以後、音楽CDの売り上げは毎年下がり続けており、2007年のオーディオ・ディスク生産額は約3333億円である。また、私は、先日、オリコンシングルチャートで20位が3000枚未満、という衝撃的なニュースを知った。Jポップバブルは崩壊し、CDの売り上げは減少の一途を辿っているのだ。その原因が何かは一概には言えまい。そもそも90年代のJポップバブルが「バブル」でしかなかったのかもしれないし、音楽産業や日本の文化構造の質的な変化が原因かもしれないし、やはりCD-Rによる「違法」コピーが原因だったのかもしれない。
 さしあたり今は次のように考えておきたい。CD-Rが音楽に与えた影響(音楽産業に与えた悪影響)をどのように判断すべきかは、判断する人間の倫理観というよりも、音楽産業(狭くはCD小売業)に対して持つ利害関係によって異なるだろう。CD-RはCD売り上げ減少の一因ではあろうが、だからといって今更CDを絶滅させることは不可能だろうし、コピーー不可能な(はずの)CCCDの導入は失敗だった。CD規格として認められず、しばしば通常のCDプレイヤーで再生できなかったCCCDは、CDをリリースするミュージシャンや消費者から嫌われ、消費者が(少なくとも私が)CDから遠ざかる一因となった。CD-Rが音楽に与えた変化はまだ沈静化したわけではないので即断は避けるが、自分の10代にとって重要な意味を持つCD小売業の将来は、ある種のノスタルジックな気分も込めつつ、注目していきたい。

2.ファイル交換、P2Pソフト


 1999年初頭に公開されてすぐに爆発的に流行した、ファイル交換ソフト「ナップスター」は、音楽流通経路にある種の革命を引き起こすきっかけになった。ナップスターを使うと、登録ユーザーのPCにあるMP3ファイルがデータベース化され、ユーザーはそれを検索して自分が聴きたい曲をダウンロード(他の登録ユーザーと「共有」して「コピー」)できた。ナップスターは爆発的に流行し、最盛期にはアメリカの大学生のうち73%が利用したという調査結果(2000年5月)すらある。ナップスターを、廃盤になって入手できない過去の音楽を入手するために積極的に用いた音楽マニアもいたし、ナップスターの理念(自由で無料の音楽、プロモーションとしての音楽交換等々)を支持したミュージシャン(オフスプリングやパブリック・エナミーのチャック・Dなど)もいた。しかし音楽業界や何人かのミュージシャン(メタリカなど)はナップスターを厳しく批判し、法的にもナップスターは否定された。というのも、ナップスターは、著作権を無視した違法なファイル交換が日常的に行われる場所でもあったからだ。一説には流通量の約90%が違法だった。ナップスターは1999年12月に全米レコード工業会(RIAA)に提訴され、その裁判闘争の間に徐々に影響力を失い、2001年7月にはサービスを停止した。
 ナップスターは、良くも悪くも、その後登場した、サーバーを用いない新しいタイプのP2Pソフトウェア(GnutellaやKaZaaなど)の先駆的存在だ。ナップスターがなくなっても違法ファイル交換が根絶されたわけではない。また違法行為を可能とするツールである以上、無条件にP2P技術を肯定できるわけでもない。しかし少なくとも、ナップスターは、インターネットを通じてコンピュータを接続してファイルを共有することで、レコード会社を経由せずに、音楽マニアたちが独自の音楽流通ネットワークを作り出すことを可能にした技術でもある。P2P技術は人々が独自の(音楽流通)ネットワークを作り出せるツールでもあった。「テクノロジーは音楽を大衆化して個人化した」という物語が安易なことは自覚している。しかし私は、レコード会社を経由せずに作られる音楽流通ネットワークが今後どのように展開していくのか(そもそもそのようなネットワークは成立するのかどうか)、楽しみにしている。

3.You Tubeなどの動画共有サイト


 YouTubeは2005年2月15日に設立されたサービスだ。今の私たちの生活への浸透具合を考えれば、驚くほど最近の設立だろう。YouTube以降、私は、新しいCDや音楽を聴いてみたい時には、レコード屋での試聴やラジオやテレビでのプロモーションを待つのではなく、まず、You Tubeで検索してみるようになった。音質は悪くとも、自分の家で好きな時に何度でも、どの店にあるよりもたくさんの種類の音楽と曲を、無料で試聴できるからである。
 YouTubeで試聴して気にいったものはCDもしくは高音質のデジタルデータを購入する。しかし気に入らなかったものは購入しない。当たり前のことだが、このおかげで「買って初めて聴いて、がっかりする」ということがなくなった。
 またYouTubeのおかげで、私は、あまり「音だけから音楽を知る」という経験をしなくなった。つまりある音楽を知り始める入り口が、「音だけ」よりも「音+映像」からの場合が多くなった。もちろんこうした経験は初めてではなく、MTVやテレビでのプロモーションからある曲を知る場合もそうだった。しかしYouTubeから音楽を知る機会が増えるにつれ、音楽経験における視覚経験の重要性が飛躍的に高まった。私が新しい音楽を知るきっかけが変質したのだ。

4.ネットラジオ


 また、私が最近も個人的に気に入っているサービスに「ネットラジオ」というものがある。この種のサービスでは、たいてい、自分専用のラジオ局を作ることができる。例えば自分の好きなミュージシャンを一人指定すると、自分専用のネットラジオ局ができて、自分が選んだミュージシャンの音楽と似た傾向の音楽を勝手に選んで再生してくれる。そこでは、気に入った音楽の情報を教えてくれるページや、その音楽をオンラインで購入できるページへのリンクが用意されている。海外ではPandora, Jango, AccuRadioなどのサービスが有名だが、日本では著作権の問題がありほとんど普及していない。(唯一知っている似たようなサービスに、Yahoo!ミュージック - サウンドステーションがあるが、あまり融通が利かず使いづらい印象がある。また、日本版のLast.fmもあるが…。)
 この先どうなるかはよく分からないし、そもそも日本で可能なサービスなのかどうかも分からないが、私個人は今後も楽しんで使っていきたいと思っているサービスである。

5.音楽配信


 PCやインターネットというテクノロジーは、違法コピーやファイル交換ソフトという問題をもたらしただけではなく、「音楽配信」という新しい音楽産業ももたらした。音楽配信とはインターネットを通じて(無料の場合もあるが多くの場合は有料で)楽曲を配信するサービスである。サービスそのものの歴史は意外と古く90年代後半から模索されていたが、インターネット上で音楽をコンテンツとして販売する可能性が意識され始めたのは、1998年頃からMP3が普及したことがきっかけだろう。1999年のナップスター騒動の影響もあり、米国で著作権管理の問題をクリアした音楽配信サービスが始まるまで少し時間がかかったが、2001年12月には、Rhapsodyなど幾つかの合法な会員制音楽配信サービスがスタートした。
 とはいえ、音楽配信サービスが一般メディアでも話題になるようになったのは、2003年4月にアップル社のiTune Music Store(現iTune Store)がサービスを開始してからだ。1曲99セントでダウンロード販売を行ったiTMSは、サービス開始後一週間で100万曲、16日間で200万曲、年末までに2500万曲をダウンロード販売した。カタログ数が豊富で手頃な価格(日本では1曲150-200円)で、ユーザーが使いやすいデジタル著作権保護機能を提供した米国では、最もメジャーな音楽配信サービスとなった。
 その後、Amazon.comやiTunes PlusからDRM-Freeの音楽ファイルが販売されるようになった。デジタル著作権保護機能を持たないデジタル・ファイルが消費者に対して販売されるようになったのだ。安価で使い勝手が良いならば合法なデジタル音楽ファイルを購入しようとする消費者は多いだろう。DRM処理されていないファイルなので、消費者がファイル交換ソフトを通じて無数の人間に配布することは可能だが、そうして無数の人間にコピーされたファイルには電子透かしが組み込まれており、元々のデジタル・ファイルを流出させた人間が誰かは分かるようになっており、著作権侵害という違法行為に対する対策は取られている。とはいえ、自分自身のPC同士の間なら何度でもコピーできるなど、DRM-Freeの音楽ファイルの利点は計り知れないというべきだろう。
 また、「サブスクリプション・サービス」と呼ばれるサービスがある。これはオンライン上の音楽をストリーミングでダウンロードして聴き放題というタイプの音楽配信サービスで、米国では既に2001年にRhapsodyが登場している。日本でも、2006年4月から、合法化されてブランド名だけが残ったナップスター社と、本社が潰れる前に独立した日本のタワーレコード社が合同で提供している。毎月の会費を払い続けている間は、事業者が用意した楽曲を全て自由に聴いて自由に自分のパソコンにダウンロードできるサービスが、今後どのように成長していくのかは分からないが、インターネット環境の中で維持される音楽産業の一形態として重要である。
 これらの音楽配信事業がどの程度の速度で音楽産業界を支配していくのかは分からないが、インターネット環境さえ整備されていれば音楽を入手できるのだから、今後、商品としての音楽が流通するメインの経路となるのではないだろうか。

6.ミュージシャンのレーベル離れ


 こうした傾向から、私は、音楽産業としてのレコード産業は消滅するかもしれないが、音楽産業と、そして何よりも「音楽」そのものはなくならないだろう、と考えるようになった。レコード会社はなくなっても音楽家は活動し続けてくれることを示す事例だからだ。
 私が考えているのは、有名なミュージシャンが、自分の新作を無料で提供したりウェブサイトから直接販売するようなケースだ。例えばプリンスは、2007年7月15日にイギリスの「Daily Mail」紙という新聞の日曜版付録として、無料で、自分の新作アルバム『Planet Earth』を配布した。プリンスはこのアルバム配布を「マーケティング」の一環として位置づけている。またナインインチネイルズは自分のウェブサイトから自分の作品を直接ダウンロード販売している。あるいは少し違う事例だが、マドンナは2007年7月に、所属レーベルのワーナー・ミュージックを離れ、レコード会社ではなく、イベント/ライブ運営を手掛ける「ライブ・ネーション」という企業に移籍した。こうしたやり方で彼ら/彼女らは、ライブなどCD売り上げ以外の部分で利益を上げようとしたり、レコード会社を通さずに直接消費者に音源を売ることで利益を上げようとしているのかもしれない。CDはすでにプロモーションの道具でしかないのかもしれない。こうしたやり方で利益を出せるのは、すでにある程度有名になったミュージシャンだけではないかとも思うし、こうしたやり方で新たに有名なミュージシャンが作られるプロセスが私には想像できない。とはいえ、新しい音楽を聴くためにはレコード会社から販売されるレコードやCDを購入する以外には方法がないのが当然だった人間にとっては、こうした傾向は、この後の展開を楽しみにさせてくれるもので、大いに色々なミュージシャンに試みて欲しいものの一つである。。

7.DAP (Digital Audio Player)


 音楽配信サービス成立の(そしてMP3普及の)背景の一つは、DAPが普及したことだ。現在のDAPの嚆矢となったのは1998年に市販されたMPMAN(仕様は内蔵32MB; 64MB)だが、DAPが一般に認知されたのは、アップル社のiPodがきっかけだ。2001年11月に販売されたiPodは、当時ではすば抜けて大容量だった(5-20GB)し業界最低ラインの容量単価の商品だった。そのiPodは、発売後2ヶ月で12万5千台以上を販売した大ヒット作となった。iPod、それに先立って2001年1月に公開された音楽管理ソフトiTunes、そして2003年にサービスを開始したiTune Music Store(日本では2005年8月にサービスが開始された)、アップル社の音楽関連事業は、商業的に大成功した、音楽を入手する新しいやり方だ。音楽関連のマーケットにおける「アップル」という商標使用の問題、SonyのWalkmanとの競争など、個人的に関心のある話題も多いが、その最大の文化的意義はなんだろうか?まだ明確には言明できまいが、例えばレヴィ2007のように、(文字通り自分音楽ライブラリー全ての曲を、あるいは、文化的構造を「シャッフル」すること、と考えても構わないかもしれない。


2.音楽配信:日本の場合


 日本では「音楽配信」は、米国とはかなり違う展開を見せている。日本でiTMSがサービスを開始したのは2005年8月で、その他の国産音楽配信サービスも含めて、有料音楽配信売り上げが増えてきたのは2005年以降のようだ。社団法人日本レコード協会が公開している「有料音楽配信売上実績」の統計は2005年以降のものだが、それによると、日本の有料音楽配信は、2005年から2007年にかけて、343億円→535億円→755億円と急激に成長している。同時期のオーディオ・レコードの売り上げ額は3672億円→3516億円→3333億円と継続的な微減状態だ。2006年の有料音楽配信の売上げ額(535億円)は、初めてCDシングルの売り上げ額(508億円)を上回った。
 しかし日本の音楽配信では、インターネットを通じてPCにダウンロードする音楽配信より、「着メロ」や「着うた」など携帯電話向けの市場の方が圧倒的に大きい。ケータイ系とパソコン系の市場規模は、2004年は約20倍、2005年以降も約10倍近い開きがある。
 これは何を意味するのだろう?詳しく分析できているわけではないが、これもまた音楽入手経路が多様化した帰結の一つなのだろう。個人的には音質は悪いし料金も高いケータイ系の音楽配信には興味はないが、ケータイ系の音楽配信は、独自の進化を遂げた日本のケータイ文化における優れたサービスだ。おそらくそもそも目的が違うケータイ系とパソコン系の音楽配信サービスの優劣を比べることにはあまり意味がないのかもしれない。ケータイ系の音楽配信が持つ、パソコン系の音楽配信とは違う存在意義については、ケータイ系の音楽配信に詳しい誰かの考察を待つことにしたい。

2009年11月13日金曜日

4.MP3と音楽のネットワーク化-1.MP3の登場

1.MP3-小型化したデジタル情報としての音楽


 既に述べたように、「レコードとしてのCD」が「デジタル情報のための容器としてのCD」に変化した原因として、1.CD規格の多様化 と、2.PC+CDドライヴ(PCが装備されて音楽CDをデジタル情報として利用できるようになったこと)、とい二つの要因を挙げることができる。1990年代後半にPC用のCD-Rドライヴが普及してからは、(違法な場合もあるが)個人が、音楽CDを音質劣化なしにコピーしてCD-Rに複製できるようになった。PCを経由することで、CDは、単なるレコードが進化した音楽の記録媒体から、デジタル情報であれば何でも記録できる記録媒体となり、音楽とそれが記録される物理的媒体との結びつきを脆弱化させた。
 音楽をデジタル情報として扱うこうした傾向をさらに推し進めたのが、MP3というファイル形式(あるいはそれ以外のデジタル音声のための圧縮音声ファイルフォーマット)の登場である。今や、PCを用いて音声を再生したことがある人々のほとんど全員が、あるいは、PCを余り使わないとしても多少なりとも音楽に関心があって何らかの音楽ソフトを購入しようとするものなら誰でも知っているであろう「MP3」。MP3の歴史はけっこう古く、70年代には研究が始まり1989年にはドイツで特許がとられている。しかし一般に認知され始めたのは90年代以降だろう。1995年にはPC上でMP3ファイルを再生するソフトウェアが登場し、1998年に特許が解放されて無料でMP3ファイルを再生するプレイヤーが提供され始めたり様々に用いられるようになった、PCやインターネット上で扱われる音楽ファイルのデファクト・スタンダードとなった。
 このMP3というファイル形式の最大の特徴はそのファイル・サイズの小ささだ。MP3というファイル形式は、音声ファイルの音質をほとんど損なうことなしに、音声ファイルのサイズを10分の1程度にまで圧縮することができる。90年代後半まで個人向けHDDの容量は(恐るべき速度で増加していったが)1GB (=1000mb)以下のものが普通だった。圧縮されていない音楽CDの音声ファイルを記録するには一分間に約10mb弱の記憶容量が必要なので、記憶領域が1GBしかなければ、音楽CD音質の音声ファイルはせいぜいCD一枚程度しか記録できない。しかしMP3形式のファイルならば10枚以上記録できるわけだ。MP3というファイル形式(のファイル・サイズの小ささ)は、90年代後半に、PC上でデジタル情報として音楽を扱うために必須の条件だったといえよう。
 MP3というファイル形式のファイル・サイズの小ささは、音楽が流通するやり方に大きな影響を与えた。MP3が登場したおかげで、一般の消費者がデジタル情報としての音楽をインターネットを通じて複製・配布・交換したり、DAP (Digital Audio Player)に記録して外に持ち出せるようになったからだ。非圧縮音声ファイルしかなければ、音声ファイルをインターネット上でやり取りするのも、普通はHDDよりも小さな記憶領域しかないDAPで音声ファイルを扱うのも、約10倍は労力が必要で面倒で難しかったはずだ。MP3のおかげで、音楽は消費者間で複製され配布され交換されるものとなり、ネットワーク化していったのだ。インターネットで流通するにはCD-R代金さえ不要なのだから、MP3は音楽を低価格化させるきっかけになったと言うこともできるかもしれない。

2.MP3-音楽消費の個人化:デジタル情報としての音楽再生


 MP3は個人が音楽を簡単に流通させることができるネットワークを実現しただけではない。MP3は、音楽消費を個人的な趣味志向に従うものへと変えた。MP3は音楽消費を個人化した。三点挙げておこう。
 まず、MP3を用いて音楽を消費することで、物理的な制約がかなり消失する。デジタル情報としてHDDに記録・貯蔵されたMP3ファイルを再生するために、私たちは、いちいちパッケージからCDメディア取り出してCDプレイヤーにセットして再生する必要はない。ただPC上でMP3ファイルを選択してダブルクリックすれば良いのだ。別のミュージシャンやアルバムを聞きたくなれば、別のファイルをクリックすれば良いだけで、わざわざ棚から別のCDを探してくる必要はない。私たちは、CDという物理的な制約を気にせずに、あれやこれやのアルバム、ミュージシャンの曲を好きな順序で聴くことができる。1000枚のCDの全ての曲をランダム再生することも簡単にできるようになったのだ。
 また、MP3にはID3タグという付加情報が組みこまれており、これは音楽CDのTOC (Table of Contet)よりも格段に多い情報量を提供してくれるので、音楽消費を個人化するものとなった。ID3タグという仕様はMP3に初めから組み込まれていたわけではなく、1996年以降に組み込まれた仕様だ。当初は、音楽ファイルの曲名やアーティスト名、アルバム名、ジャンルなど7項目を10-20文字で記録できるに過ぎなかったが、以降、様々なヴァージョンの規格が作られ進化していった。ID3タグを付加情報として持つことで、MP3という音声ファイルは、ファイル名以外の付加情報-アーティスト名、アルバム名、ジャンルなど-に従って音楽を聞くことを可能とするデジタル情報となったのだ。ある一人のミュージシャンのアルバムだけ聞きたい時、もはや、何枚もCDが並んだ棚からそのミュージシャンのアルバムを全て抜き出してCDプレイヤーの横に並べ、一枚ずつ順番に聞いていく必要はない。IC3タグが適切に設定されているMP3を用いれば、簡単にあるミュージシャンのMP3ファイルだけを再生したり、あるジャンルの音楽だけを聴くことができる。例えば「ボブ・マーリー」という名前が設定されているファイルを全て聞くことも、「レゲエ」というジャンルであると設定されているファイルを全て聞くことも簡単に出来るようになる。もはやレコードやCDのライナーノートなどをいちいちチェックする必要はないのだ。(とはいえ、たいてい現実にはそれらのタグ情報が不適切な場合も多いが。)
 また第三に、(WiampやiTunesといった)PC上のオーディオ・プレイヤー・ソフトには、例えば、ある曲の再生回数を記録したり、ジャンルや過去に再生した日時等々の条件に沿って曲を自動的にリストアップするプレイリスト作成機能などを備えているものも珍しくない。インターネット接続環境があれば、その曲の「歌詞」を探したりその曲に関連するミュージシャンの音楽を買えるサイトに1クリックで行けるようになっている場合も多い。今まさに進化中のこれらのソフトの色々な機能を列挙して説明することは避けるが、こうしたソフトを用いた音楽消費はCDメディアを用いた音楽の聴き方とは全く異なるものであり、それがどのようなものになるかはまだ具体的には言えないが、「音楽聴取」に大きくて新しい変化をもたらすものであることは確かだ。
 MP3を用いることで、消費者は好きなように音楽を消費できるようになってきた。私たちはもはや、自分が好きな曲の入っているCDやレコードが棚のどの部分にあるのか覚えておく必要はなくなったし、CDという物理的な単位を超えてある曲とある曲を一つのグループとしてまとめ直すことも簡単にできるし、頑張ってマイ・ベストを作らなくともPC上で音楽再生ソフトが自動的に自分がよく聴く曲をリストアップしておいてくれるのだ。私は半ば無理やりに、事態を肯定的に理解しようとしているかもしれない。こうした「自由」が常に良いとは限らないだろうし、これは「自由」ではなく「MP3というファイル形式」による(一見そのようには見えないが)新しいタイプの「管理」なのだ、と考えることもできるだろう。煩雑かもしれないが実際に物理的なモノを使って何かすることの意味、無数にある音楽の中から苦労して自分のお気に入りを見つけることの価値、そういうものがあることも否定できまい。実際のところ、MP3を用いた音楽消費とは、音楽の付加情報こそがコンテンツとなったという、ある意味、転倒した事態を暗示しているのかもしれない。何にせよ、現在、個人が音楽を自由に好きなように使うテクノロジーと可能性を入手したことは間違いない。私は、今はまず、現状を理解するための枠組みが必要だと考えている。だからまずは、(乱暴で安易かもしれないが)楽観的で肯定的に現状を理解しておくことにしたい。

この部分の参照文献について


この部分は、私個人の経験と解釈に基づく枠組み設定だし、直接的に参考になる文献を見つけられなかったので、あまり参照文献を使用していない。MP3の歴史も各種文献から情報を拾ってきたもので、あまり整理できていない。
また、この「音楽とテクノロジー」を執筆して半年ほど後に、以下の二本のMP3論文を知った。
Sterne2003の後に、Jonathan Sterneは、MP3の文化的起源の探求に取り組んでおり、MP3というファイル形式の文化的背景を音響心理学的なパラダイムに求めているようだ。興味深い論だが、私の枠組みには直接的には影響しないので文献情報を記すに留めておく。スターンの次の本はこの発展となるらしい。

Sterne, Jonathan. 2006a "The MP3 as Cultural Artifact." New Media and Society 8:5 (November 2006): 825-842. http://sterneworks.org/Text/
---. 2006b. "The Death and Life of Digital Audio." Interdisciplinary Science Reviews 31:4 (December 2006): 338-348. http://sterneworks.org/Text/

2009年11月7日土曜日

J-GLOBAL登録情報を訂正

J-Grobalの登録情報を訂正し、リンクも訂正しました。
正しくはこちらです。
昔、博士課程の学生として京都大学に所属していた時に登録されていたJ-Grobalの登録情報にリンクしてしまっていました。
重複してたことに気づいてませんでした。
やれやれ。

2009年11月6日金曜日

3.音響録音再生のデジタル化-3.音響再生のデジタル化

-レコードとしてのCDからデジタル情報容器としてのCDへ

1.音響再生のデジタル化:レコードとしてのCDの登場


 消費者がデジタル録音によって記録された音響をデジタル・データとして使えるようになったのは、1982年に音楽CDが発売されてからだ。デジタル録音が登場してからしばらくの間、消費者が手にできたのは、デジタル録音されたLPレコードだった。それはアナログ再生されるものだった。しかしCDが登場して初めて、消費者個人の家庭でも音響再生はデジタル化された。レコードとしてのCDとは、既にデジタル化されていた録音を補完すべく、音響再生をデジタル化した革命だったのだ。
 音響再生がデジタル化されたことはどんなメリットをもたらしたのか。
 デジタル再生方式では、(デジタル録音方式と同様に)再生時の走行系の問題に起因するノイズや音の変調がほとんどなくなった。また、デジタル再生では音楽再生時の伝送系の信号損失を考慮しなくて良い。つまり、CDはデジタル・マスターそのものの音が再生可能な高品位の音響再生メディアなのだった。さらに、CDに記録されたデータはレーザー光線で読み取られるため、再生時に物理的な接触が生じない。それゆえCDとは、(理論的には)半永久的に同じデータを保持して再生音質を劣化させないメディアだったのだ。もはや何百回も同じレコードを繰り返して聴いたら音溝が擦り切れてしまう、というような不安は無用になった。
 このような音質の劇的な改良に加えて、CDは、音楽再生に本質的に革命的な機能をもたらした。それはTOC (Table of Content) を用いた再生機能だ。TOCはCD読み込み時に最初に読み込まれるデータ領域で、そのCDに記録されている曲数、全演奏時間その他のデータが記録されている。CDプレイヤーの機能によって異なるが、このTOCを用いることで、聴き手は、今聞いている曲が何曲目の何秒目かを表示させたり、ランダム・アクセス・プレイできるようになった。つまり任意の曲順に聞いたり、シャッフルして聞いたり、一曲だけあるいはCD一枚全てあるいは任意箇所だけ反復して聞いたりすることが可能になったのだ。このようなランダム・アクセス・プレイはレコードでは絶対に不可能だった、いわば聴取者の夢だった。CDという音響再生のデジタル化が、この夢を初めて実現したのだ。

2.デジタル情報としての音楽:デジタル情報の容器としてのCD


 CDというメディアは、必ずしも音楽のためだけのメディアでは終わらなかった。音楽CDはCD-DA (Compact Disc Digital Audio) と呼ばれる規格を持つコンパクト・ディスクで、1980年にソニーとオランダのフィリップス社が共同開発して規格化したものだ。以後、CDメディアを用いた規格がたくさん登場する。例えば、1985年にはコンピュータ用データ記録の規格であるCD-ROMが制定され、1988年にはアップルのパソコンがCD-ROMの読み取りに対応した。パソコンにCDドライヴが取り付けられたことで、人々は、CDに記録された様々なデジタル・データを利用できるようになった。また、1990年には写真記録用のフォトCD規格が、1993年には最大74分の動画と音声を収録できるビデオCD規格が定められた。レコードの代わりになるものとして登場したCDというメディアは、その後、音楽以外の様々な種類のデジタル・データの入れ物として発展していった。最も重要なCDファミリーの一員は、1989年に太陽誘電株式会社が規格を制定したCD-R (Recordable CD-ROM)だろう。当初、CD-Rはあまり注目されていなかったが、1996年以降、デスクトップパソコンにCD-ROMドライブが標準搭載されるようになった時期に急成長し、その頃からCD-Rのためのドライヴとメディア価格は低下し、急速に一般に普及していった。これ以降、パソコンを使って個人が、CD-DA(やその他の規格のCD)を作ることができるようになったのだ。
 正確には、パソコンは、1980年代前半から個人が音声を操作編集して音楽を作るために用いられていた。例えばMIDIというものがある。1982年に規格が制定されたMIDIは、今でもDTMをしようとする人にとっては基本的な知識の一つだ。当時のパソコンの性能の限界から、音響の録音・再生やリアルタイムでの音響処理はまず不可能だったし、たいていの場合、パソコンは「シーケンサー」として利用されるに過ぎなかったが、それでもMIDIは、個人が音楽を作るための強力なツールだった(し、今でもそうだ)。とはいえ、MIDIは音声録音技術ではないし、音楽制作手段としても限界が多いことも事実だ。個人が音声のデジタル情報を編集する技術を手に入れるためには、パソコンにCDドライブがつく必要があった。確かに、すぐにCD-DAに記録されていた音楽が全てデジタル・データとして処理されるようになったわけではない(し、今でもPCを経由せずにCD-DAを使用する人はたくさんいる)。しかし、CDドライヴが付いたことは、個人がCD-DAに記録された音楽情報をデジタル・データとして取り扱う端緒となったことは事実だ。パソコン上でCD-DAからデジタル情報を読み取り、さらにはそのデータを編集するソフトが登場することで、CDに収録されたデジタル情報としての音楽の編集可能性は格段に拡大した。ますます、CDはデジタル情報のための容器となり、音声録音・編集技術は個人化していったと言えよう。
 民生用CD-Rドライブが商品化されたということは、これまで完成品の形でしか消費者の元には届かなかった「レコードとしてのCD」を、個人が自由に作れるようになったということだ。音楽はデジタル化されることで、制作と消費の垣根は低くなり曖昧になっていったのだ。(参考文献について:CDファミリーの規格に関する歴史は、簡便な参考文献を知りません。私は、オンラインで読めるソニーの社史などを参照しました。他に信頼できる文献をご存知の方、ぜひともご教示お願いいたします。
The University of San DiegoのSteven Schoenherrが公開しているRecording Technology Historyなど、技術史関連のソースも幾つか当たりましたし、特に誤った情報はないと思いますが、何かありましたらお知らせください。いずれにせよ、論旨が大きく変わることはないと考えてます。)

2009年10月30日金曜日

3.音響録音再生のデジタル化-2.デジタル録音方式の登場

-レコードとしてのCDからデジタル情報容器としてのCDへ

1.PCM録音システム、サンプリング・テクノロジー


 音のデジタル化という発想の源泉は案外古く、20世紀前半にまで遡る。1939年にアメリカのA・H・リーヴスが、PCM(Pulse Code Modulation パルス符号化変調)という方式を発明したのが最初である。これは、信号伝送にパルスを用いることで雑音その他の影響を受けない通信伝送方式として考案されたものだが、技術的な限界から実用には至らず、理論的にその可能性が予測されたに留まった。その後、このPCM方式は理論的・現実的に改良されていき、1962年に初めて電話の音声伝達のために用いられた。長距離電話で話しやすくなったのも、1969年のアポロ11号による人類史上初の有人月面着陸の映像が地球で明瞭だったのも、このPCM方式のおかげである。このPCM方式を用いて、1965年にNHKはPCM録音機の実験試作を開始し、1966年に試作機を完成し、1967年にステレオ仕様の実験機を公開した。
 世界初のPCM録音レコードは、これを用いて録音され、1971年4月にコロンビアが発売したコンサート録音『打!‐ツトム・ヤマシタの世界』である。1978年に初めて欧米でデジタル録音された最初のレコードが発売され、1983年頃にようやく世界的に(クラシック音楽の分野で)PCM録音が一般化することを考えると、これは極めて先駆的な試みだった。コロンビアは70年代に自社開発によるPCM録音システムを開発し、この録音機を使って、日本のレコード会社としては初めてヨーロッパで自主録音を行った。デジタル録音の登場は、それまで後進国だった日本が録音の世界で初めて先進国となった瞬間なのだ。(日本が初めてデジタル録音方式を実用化したことが強調されているのは、岡1986である。)
 このPCM方式が重要なのは、PCM録音システムだけが、実用化された(ほぼ)唯一のデジタル録音システムだからだ。PCM方式によって、音声などのアナログ信号はデジタル・データに変換される。例えば音楽CDの規格は、サンプリング周波数44.1khz, 量子化ビット数16bitである。この場合、音声のアナログ信号は、1/44100秒毎に(44.1khz)、0~65535に段階分けされて(16bit:2の16乗)、0と1の二進法で記録される。この、1秒間に4万4千1百回、音声を数値化する作業を「サンプリング」と呼ぶ。音声のアナログ信号は、このサンプリング・テクノロジーによって、デジタル・データに変換されるのである。

2.デジタル録音のメリット


 デジタル録音にはアナログ録音には無い利点がたくさんあった。制作者がレコードの原盤を制作する時の利点をあげてみよう。まず、デジタル録音方式では、トラック間の録音と再生のタイミングを完全に同期させることができた。また、機械的な問題がほとんどなくなった。(デジタル再生方式も同様の利点を得ることになった。)例えば、走行系のワウ・フラッター(テープなどの走行の不安定さが原因の音揺れ)などに起因するノイズや音の変調がほとんどゼロになった。またデジタル録音では、0と1の連続さえ正確に保たれていれば半永久的なデータ保存が可能で何度コピーしても音質劣化が生じない。つまり、磁気テープ録音では避けられなかった、トラック間の非同期や磁気変調が原因のノイズがなくなった。またデジタル録音では、サンプリング周波数や量子化ビット数を大きくすることで、記録する音域は格段に拡大できた。音質が目覚しく向上したのだ。(ここで、MIDIを用いた音楽制作から、ProToolsを用いた音楽制作やDTMへの移行について概観したいところだが、その準備はない。管見の限りでは、80年代以降の音楽制作環境の変化について整理している仕事を知らない。ご存知の方がおられましたらご教示お願いいたします。)

3.デジタル録音とデータを記録する媒体


 このように、デジタル録音は過去100年のアナログ録音とは全く異なるものだ。デジタル録音がアナログ録音と決定的に異なるのは、記録されるデータとデータを記録する媒体との関係だ。デジタル録音では、データが記録される媒体は何でも構わないし、逆に、記録媒体はそこに記録されるデータの内容が何でもあっても構わない。それは音でも静止画でも動画でもテキストでも構わない。音楽と記録メディアとの必然的な物理的関連性は消失したと言っても構わないだろう。しかしアナログ録音の場合、記録媒体との結びつきは決定的である。基本的にレコードに記録されるのは音声だけだ。そして何より、アナログ録音は、記録媒体の物質性に縛られている。アナログ録音では、記録された媒体が物質的に変化すると記録された音響も劣化してしまう。そして、録音再生複製伝送等々の全てのプロセスで音声は物理的な接触や摩滅を受けて必ず変質してしまう。
 対してデジタル録音の場合、音の記録は、もはや物質的な媒体に縛られた「モノ(のようなもの)」として存在する必要はない。デジタル録音されたデータはどんな媒体に記録されても構わない。録音再生複製伝送の全てのプロセスで、0と1の配列さえ正しく読み取られれば、記録されたデータが変質することもない。それゆえ、デジタル・データとして記録された音は、何個でも全く同じ複製を作り出すことができる。記録された媒体が物質的に変化すると記録されたデータが変化してしまうのは同じだが、デジタル・データとして記録された音には唯一無二の「オリジナル録音」があるのではなく、全く同じ無数の「コピー」が存在するのである。
 デジタル録音が登場したことで、音声録音・編集技術は、磁気テープとは比べ物にならないくらい消費者のものになったと言えるだろう。初期のデジタル録音は、ヴィデオ・テープ・レコーダーやコンピュータ用データ・レコーダーに記録されていた。消費者がデジタル・データの恩恵に分かり易く与るようになったのは、CDが登場して音響再生がデジタル化されてからだ。また、音声録音・編集技術が個人化したのは(音響録音再生編集テクノロジーが消費者のものとなったのは)、PCにCDドライヴが取り付けられて、人々が、音響をデジタル・データとして取り扱って簡単に音響を録音したり編集できるようになってからだ。それは「レコードとしてのCD」から「デジタル情報の容器としてのCD」への移行として語ることが出来るだろう。

2009年10月23日金曜日

3.音響録音再生のデジタル化-1.アナログ、デジタル

-レコードとしてのCDからデジタル情報容器としてのCDへ

1.アナログな音、デジタルな音


 音とは、空気などの媒体を伝わる振動のうち、人間の耳に知覚されたものである。(人間の可聴域はおよそ20hz-20khzとされる。)時間を横軸に、振幅を縦軸にとることで、この振動は波形で表現できる。正弦波や試験放送の音波などの人工音は規則正しい単純な波形になるが、全ての現実音はたくさんの倍音を含んでおり、かなり複雑で不規則な形の波形となる。
 この複雑な波形の連続的な変化をそのまま記録するのが、アナログ録音である。アナログ(analog)とは「相似、類似の」という意味である。原理的には、エジソンのフォノグラフやパウルセンの磁気録音以来ずっと、音の記録・再生はアナログ方式だった。例えばレコードの音溝には原音の波形の変化がそのまま記録されているし、テープ・レコーダーには、電気信号に置き換えられた音の連続的な変化が、磁性体の微粒子の方向変化として(つまりアナログな変化量として)記録されている。理論的には、波形を記録する装置の精度が高ければ、デジタル録音よりもアナログ録音の方が原音と再生音との誤差を小さくできる。しかし現実には、アナログ録音再生方式ではテープやディスクを走行させる必要があり、録音媒体の運用動作に起因する機械的な問題は避けられないので、デジタル録音以上の高い音質は理論的な可能性でしかない。
 そうしたアナログ方式の限界を克服するものとしてデジタル録音再生方式は登場したと言えよう。デジタル(digital)とは元々ラテン語で「指、指の」という意味だった。数を指で数えるという原義から、連続量を離散的な数値化して処理する方式を意味する。デジタル録音は、連続的に細かく振動している音を、極めて短い時間で瞬間的に区切って記録する(サンプリングする)。「デジタル」録音とは、本来は連続的な現象である音を極めて細かく切り刻み、数値化し、0と1の二進法で記録するものだ。後述するが、デジタル録音再生方式はアナログ録音再生方式とは異なり機械的な問題はあまりなく、音質も格段に上昇し、使用者の利便性も格段に向上した。(アナログ・デジタル録音再生方式に関しては、中村2005や日本音響学会1996といった、音響科学入門書を参照。)

2.音のデジタル化


 音響録音と再生のデジタル化は、まず、1980年代にPCM録音システムというデジタル録音方式が一般化し、次に、CDを用いたデジタル再生方式が一般化することで達成された。CDは、1982年に世界で初めて日本で発売された。そして数年のうちに、レコードにとってかわって主要な音楽再生メディアとなった。CDは、日本では1986年には生産金額でLPレコードを上回り、1989年には音楽ソフトウェア市場の売上の97%以上を占めるに至った。
 登場した直後のCDは、レコードの代替物、「レコードとしてのCD」だった。しかしCDは、0と1という数値で記録できるデジタル情報なら何でも記録できるを規格だったので、音楽以外にも様々な情報を記録できる媒体でもあった。1985年にソニーとフィリップス社が共同でCD-ROM規格を規定し、1988年にはアップルからCD-ROMを扱える民生用ドライブが登場した。1988年にはデータを書き込めるCD-R (Compact Disc Recordable)が開発され、1996年にはパソコン用CD-Rドライブが商品化された。こうして、パソコンとパソコン上でCDに記録されたデジタル情報を個人が利用できる環境が整うことで、CDはデジタル情報を記録するための容器となり、音や音楽は容器に限定されないデジタル情報になった。音楽と記録メディアとの物理的な結びつきが脆弱化したのだ。
 デジタル情報となることで音楽は無限に複製され拡散するものになった。デジタル情報となることで音楽はネットワークの中で流通し、ネットワークに接続できる場所ならどこからでも入手できるものとなった。音楽は「水」のようなものになったとさえ言われるようになったのだ。(「水のような音楽」という発想は、クセック・レオナルト2005から学んだ。)

2009年10月16日金曜日

2.磁気テープの時代-3.個人のための音楽テクノロジー

1.フォノグラフ以来の、個人が利用できる録音テクノロジー


 磁気テープ録音は、フォノグラフ以来の個人が使える録音テクノロジーだった。アメリカでは1950年、イギリスでは1951年に家庭用テープレコーダーが発売された。特に画期的だったのは、1957年にテープ・レコーダーとレコード・プレイヤーが結合した「セレクトフォン」が発売されたことで、ホーム・テーピング(家庭ダビング)の時代が始まったことだろう。つまり、個人が、市販のレコードをテープに録音して自分や友達のために複製を作ったり、好きな曲だけを選んで録音して自分のお気に入りだけ集めたマイ・ベストを作ったりできるようになったのだ。さらに1958年にはRCAヴィクターが本のサイズのカートリッジ式テープを発売し、1963年には後に標準となるカセット・テープを発売した。手軽なカセット・テープが登場することで、テープ録音は、エジソンがフォノグラフに託した口述筆記の夢を(フォノグラフ以来、再び)現実のものとした。磁気テープは、個人が手軽に使える録音テクノロジーだったのだ。
 また、扱いが手軽なカセット・テープは、蓄音機よりも「音楽」を持ち運ぶのに適したメディアだった。磁気テープは録音の敷居を下げただけではなく、聴取の局面でも音楽のモバイル化を促進した。もちろん「音楽のモバイル化」という傾向が明確に生じるのは、1979年にソニーがウォークマンを発売してからである。

2.ウォークマンの登場:音楽経験の個人化


 1979年にソニーは、録音機能なしでは売れないとの社内外の声に反してウォークマンを発売し、大ヒットした。「ウォークマン」とはあくまでもソニーの商品名で多くの国で商標登録されている和製英語だが、今やウェブスター辞典を初めとするたくさんの辞書に掲載されるほど一般化した言葉だ。「ウォークマン」は1980年の三種の神器の一つだったし(他はローラースケートとデジタル・ウォッチ)、その後もソニーがラインナップを拡張していったヒット商品だった。(例えば、1984年にはCDのためのディスクマンが、1992年にはMDウォークマンが発売された。)
 ウォークマンが掲げていたコンセプトは、「いつでも、どこでも、手軽に」音楽を屋外へ持ち出して楽しむことだ。ウォークマンは全く新しい音楽経験をもたらすものだった。ウォークマンを使って歩きながら音楽を聞くこと、例えば地下鉄で、あるいはビルの階段を登りながら、あるいは散歩しながら音楽を聞くこと、それらは、音楽をいつでもどこでも好きな時に聴く、という全く新しい音楽経験だった。ウォークマンは非常に個人的な音楽経験をもたらすものだった。と同時に、それは、全く新しい都市経験をもたらすものでもあった。ウォークマンを使うことで、都市を歩きながら、都市の音ではなく自分が選んだ音楽を聴きながら歩けるようになったからだ。これは都市のサウンドスケープ(音風景)を変化させ、都市経験を自分の好きな音楽に即して分節するものだった。『汚れた血』のアレックスのように、デヴィッド・ボウイのModern Loveを聞きながら夜の街を疾走するのは、現実に可能なのだ。(それでどんな風に都市経験が変わるか変わらないかは、また別の話だ。)(というか、あの場面のBGMは「ラジオの音」という設定だ。)(要するに、音楽を聴きながら町を歩くと町の見え方が違う、という話だ。)ウォークマンは新しい(音楽)文化を作り出したのだ。(ウォークマン登場直後のウォークマン論として細川1981、あるいは、ゲイ2000は、カルチュラル・スタディーズのケース・スタディとしてウォークマンを取り上げたものである。黒木1990は、ウォークマンを実際に商品として売った人物によるドキュメントの一つである。)

3.まとめ


 磁気テープは、音楽を個人化したと言えるだろう。
 磁気テープは、音楽制作を(集団で共同作業できるようにすると同時に)個人化した。磁気テープは、ミュージシャンが個人でホーム・スタジオを持つことさえ可能にしたのだ。また、録音と複製が容易で手軽なカセット・テープという媒体は、大会社を通してレコードを作らずとも、自分が作る音楽を流通させることができる媒体だった。つまり、磁気テープは音楽の流通も個人化するものだったのだ。
 また磁気テープは、音楽の消費も個人化した。LPレコードやラジオなどの再生メディアとテープ・レコーダーを一緒にした家庭用オーディオ・セットが発売されることで、家庭ダビングの時代が始まった。ということは、市販の音楽を自分の好きなように扱えるようになったということだ。自分が好きなように、とは、法律的な是非の問題はともかく、また音質の良し悪しの問題はともかく、色々な音楽をコピーして自分の好きなように並び替えたりといった行為が、個人レベルで可能になったということだ。さらにウォークマンが登場したことで、音楽はいつでも、どこでも、手軽に、そして個人的に消費できるものになった。
 音楽の生産、流通、消費の個人化というこの傾向は、音がデジタル化されることでますます顕著になると考えられるだろう。良し悪しは別にして、テクノロジーは、私たちが音と音楽を好きなように扱う手段を与えてくれる。安易な枠組みかもしれないが、今は、まずは音響テクノロジーの歴史に関する共通理解を設定すべき状況だと思う。なので、以下、この枠組みに基づいて音のデジタル化について整理してみたい。

2009年10月9日金曜日

2.磁気テープの時代-2.テープ編集を多用する音楽制作

1.音楽生産メディアの変化


 音楽を生産して伝達するメディアが変化すると、作られる音楽は変化する。二十世紀以降、新しい楽器と新しい音響録音テクノロジーは音楽制作のあり方を一変させた。とりわけ磁気テープ録音が一般化した1950年代以降、磁気テープ編集を多用する音楽制作がなされるようになった。そこでは幾つかのトラックに別々に録音し、それぞれのトラックに別々にエコー効果を施したり様々な編集を行った後、音量のバランスをとりつつりミックス・ダウンする、といった編集方法が一般化した。例えば、50年代に一般化したテクニックにダブルトラックという方法があった。これは、同じヴォーカル・トラックやギター・ソロを二度以上録音し、それらを重ね録りするテクニックで、ヴォーカル・トラックに用いられた場合、一人でユニゾンで歌っているような効果が生み出せる。例えばバディ・ホリーの1957年の「Words of Love」やビートルズのセカンド・アルバム以降の楽曲の多くのヴォーカル・パートに用いられた。

2.テープ編集を多用する音楽制作


 テープ録音を用いて音楽を制作できるようになったということは、録音可能なあらゆる音を使えるようになったということ、そして、時間を編集できるようになったということである。別々に録音された複数の演奏や録音を、後から編集して一つのトラックにまとめたり、あるいはそのうち一つだけを録音し直す、といった操作を行えるようになったのだ。1960年代に磁気テープを用いた音楽制作は一般化していったが、特に有名な例としてしばしば例に出されるのは、グレン・グールドとビートルズである。(あるいは磁気テープを用いる音楽制作としては、先に1950年代の「具体音楽」と「電子音楽」を参照すべきかもしれない。両者ともに、西洋芸術音楽の20世紀以降の展開である「現代音楽」というジャンルの中の動向として理解すべき音楽だ。しかしコンテクストとは無関係に、電子音響音楽の先駆的存在として言及されることも多い。その出自や目的を解説する余裕はないしこの文章の目的でもないので、詳細はChadabe 1997; Holmes 2002; Manning 2004川崎2006、田中2001等を参照のこと。)
 グレン・グールドは、有名なコンサート・ピアニストとして10年近く活動した後、1964年に「生演奏」から引退し、その後は没年(1982年)まで録音スタジオでの仕事に集中することになった。60年代後半以降のグールドの「アルバム」は、同じ作品を何度か演奏して録音し、それぞれからグールドが良いと判断した部分を抜き出してつなぎ直し、レコード上に最終的な「演奏」を再構築したもの、である。グールドは従来の意味での「演奏」をより完璧なものとして「レコード」上に実現するために磁気テープを使用したと言えるだろう。この意味でグールドの事例は、従来の意味での演奏家の理想(ミスタッチがなく隅々まで意図した通りの演奏)を実現・記録しようとしたものなのだ(グールド1966(1985)やグールド1990参照)。
 また、1962年にデビューしたビートルズも、1966年を最後にライブ演奏をやめ、1970年の解散までの数年間、スタジオで制作した「作品」だけを発表し続けた。ビートルズの多くのアルバムは4トラックのマルチトラックで録音編集されたものだ。なかでも1967年に発売された『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は、周到なテープ編集を用いて構築された「コンセプト・アルバム」として有名だ。このアルバムでは、手回しオルガンの音を録音したテープがランダムに切り刻まれて貼り合わせられていたり、テープの早回しが重ねられていたり、テープ速度を変えたりずらしたりして作られたグリッサンド(音高が段階的に変化)が用いられている。それらの音素材の準備、編集には、ビートルズの四人だけではなく、プロデューサーのジョージ・マーティンの手が加わっている。磁気テープ編集を用いた音楽制作においては、音楽を演奏してただ録音するだけではなく、演奏以外の音素材も加えて後から編集するという作業が行われるので、最終的な音響結果の制作は、必ずしも演奏家だけが行うわけではない。その意味でビートルズの事例は、磁気テープを用いた音楽制作は(作曲家個人において完結するとされる従来の意味での音楽作品制作(=作曲)とは異なり)集団的な(プロデューサーやエンジニアたちとの)共同作業ともなり得ることを明瞭に示す事例なのだ。(増田・谷口2005では、1950年代の電子音響音楽の電子音楽を「作曲家の夢の実現」として、1960年代のグールドの事例を「演奏家の夢の実現」として、そしてビートルズの事例を「音楽制作の集団化」の事例として言及している。図式的かもしれないが、見通しを晴らしてくれる図式化だと言えよう。またマーティン2002は興味深い回想録である。)

3.音楽生産のための三つのメディア


 クリス・カトラー(音楽家、音楽批評家)は、音楽生産のためのメディアを三つ‐身体、楽譜、録音テクノロジー‐挙げ、それぞれが音楽制作に及ぼす影響について図式的に説明している(カトラー1996)。身体に基づく音楽とは、いわゆる「民族音楽」のことで、これは耳と記憶に基づいて集団的に作られるもので、作曲家と演奏家の区別はまだ無い。楽譜に基づく音楽とは、いわゆる西洋芸術音楽のことで、これは作曲家個人が楽譜に書くことで作られる音楽のことだ。楽譜に書かれることで、音楽は、楽譜が持つ視覚的秩序に従うことになる。例えば、リズムは「水平的」に分割されるし、和声は「垂直的」に重ねられることになる。この音楽では作曲家と演奏家の分業化が推し進められた。
 そしてテープ録音を多用して制作される音楽こそが、カトラーの言う録音テクノロジーに基づく音楽だ。カトラーによれば、この音楽は再び耳に基づいて作られるものとなった。少なくとも五線譜に記譜されるだけで作られるものではなくなった。例えば、音楽作品は五線譜に記譜された段階で完成するわけではなく、演奏を録音した後で様々に編集された後に完成するようになった。「作曲」と「演奏」の分業は再び曖昧化し、演奏は時間の流れから解放されて、音楽制作は音楽スタジオに依存するものとなった。また、後からの編集作業は集団で相談して決めることができるのだから、音楽制作は、個人で完結する「作曲」から、再び集団的な共同作業になることも可能となった。
 カトラーの図式は(問題点も多いが)様々な観点を取り出すことができる有益なものだ。ここでは、音楽生産のためのメディアの変化に伴い音楽制作が従う秩序や音楽制作の主体は変化すること、が明瞭に示されていることを強調しておきたい。
 そして一つの観点を付加しておきたい。カトラーは、磁気テープが音楽制作を集団的な共同作業へと変え得るものであったことは指摘しているが、音楽制作を個人化するものでもあったことはあまり強調していない。例えば複数の楽器演奏を必要とする音楽の場合。楽譜に基づく音楽では、作曲家個人が楽譜に音符を書きつけ(作曲し)、その後、何人かの演奏家がその楽譜を解読して「演奏」しなければいけない。しかし磁気テープを用いれば、必ずしも複数の他人に演奏してもらう必要はなく、一人が何度かに分けて演奏した録音を後から編集して一つのトラックにまとめることで、一人で合奏することも可能となる。極端に言えば、一人が複数の楽器を何度も演奏することで、一人でオーケストラ演奏(のようなもの)を再現することも可能だ。これをカトラーのように、磁気テープとは演奏家のためのメディアだと表現しても良いだろう。しかし同時に、これは、オーケストラや複数の演奏家を利用できない人間でも複数の楽器演奏を用いた音楽を制作することが可能になったのだから、磁気テープは音楽制作を個人化するものだった、と表現しても良いだろう。
 いずれにせよ(集団的な共同作業に変えたにせよ、個人化したにせよ)、磁気テープが音楽生産のあり方を一変させたことは確かだ。音楽は、必ずしも、楽譜に音符を書いて「作曲」する(そして演奏家がその楽譜を解読して演奏する)という手順を踏まなくても作ることができるものになったのだ。

2009年10月2日金曜日

2.磁気テープの時代-1.磁気テープの歴史

1.磁気テープの登場:録音と編集の個人化


 磁気テープ録音の源泉は古く、1898年にワルデマー・パウルセンが特許を得た、テレグラフォンという磁気録音機にまで遡る。これは銅のワイヤーに音声信号の強弱を磁気変化として記録し、その変化に応じて音声を復元する発明だった。この発明は、アメリカとイギリスでワイヤー・レコーダーとして研究され、第二次世界大戦までラジオ放送局や軍で使用されたが、音質は余り良くなかった。ワイヤーではなくプラスティックに磁気録音する方式は、ドイツで開発され、1930年代中頃から実用化されていった。1935年にマグネトフォンという最初のテープ・レコーダーの実用機が作られ、第二次世界大戦中に、連合国軍に対する対敵謀略放送に使われた。この放送を分析したイギリスの専門家は、ノイズの性格からディスクを使ったものでは無いと判断したが、磁気録音を用いたものとは考えなかった。連合国軍が知っていた磁気録音の音質よりも桁違いに優れていたからだ。磁気テープもまた、戦争のおかげで飛躍的に進化したテクノロジーの一つなのだ。
 なので、磁気テープ録音の技術を連合国側が手に入れたのは第二次世界大戦後である。終戦後、連合国側の技術調査団がドイツの技術をアメリカに持ち帰り、アンペックス社がテープ・レコーダー第一号機を開発した。この第一号機に注目したのが、当時アメリカで最も人気のあるタレントの一人だったビング・クロスビーである。彼は自分のラジオ番組のためにテープ・レコーダーを利用し始め、1948年にアンペックスのテープ・レコーダーを入手して使い始めた。各放送局も相次いでテープ・レコーダーを導入し、幾つかの会社が相次いで各社のテープ・レコーダーを発表し、1949年には大手レコード会社が録音時にはテープ・レコーダーを使うようになっていた。
 テープ・レコーダーは、録音のあり方を大きく変えた。それまでラジオ放送やレコード製作で採用されていたダイレクト・ディスク・カッティング方式(ディスクに直接録音する方式)は、すぐにほとんど磁気テープ録音に取って代わられた。磁気テープ録音の音質は優秀だったし、長時間録音できたし、ディスクとは比べ物にならないほど編集が容易だったからだ。磁気テープ録音では、録音可能な周波数帯域は人間の可聴域と同程度にまで拡大されたし、30分以上連続して録音できたし、後から拍手や効果音をダビングしたり、上手く録音できた部分を切り貼りするといった編集が可能だったのだ。長時間録音と高音質録音という特徴を持つ磁気テープ録音は、LPの登場とハイ・フィデリティ熱という第二次世界大戦後のオーディオ史における二大現象の前提条件だった。また、ステレオ・サウンドも最初は磁気テープを通じて個人の家庭に導入されたものだ。
 しかし何より、テープ・レコーダーは、機動性に富んで持ち運び可能なテクノロジーで、録音が簡易化されており、レコードを作ろうと思えばアマチュアでも作れるテクノロジーだったことを強調しておきたい。この時期、それまでは録音されなかっただろうマイナーな音楽を録音する小さなレーベルがたくさん登場している。磁気テープ録音は、小規模なレコード会社や個人でも「録音」を可能とするテクノロジーだったのだ。

2.磁気テープの発展:ホーム・スタジオ


 磁気テープ録音は、フォノグラフ以来の個人が使える録音テクノロジーだ。テープ・レコーダーは、50年代の何人かのミュージシャンたちにとっては、他のミュージシャンの曲を学んだりコピーしたり、自分の音楽を作るための道具となった。例えばR&Bシンガーのチャック・ベリーは、1951年に初めてワイヤー・レコーダーを購入し、次に$79でリール式のテープ・レコーダーを購入した。彼は自分が作った曲をテープ・レコーダーに録音した。彼は録音したテープをチェス・レコードに持ち込んだおかげで、レコードを出せた。彼にとって、「歌を作ること」とは「楽譜に曲を書くこと」ではなく「テープに録音すること」だった。
 60年代には、音楽スタジオでテープ編集を多用する音楽制作が行われるようになった。これについては後述する。60年代には、ミュージシャンたちはただ楽器を演奏するだけではなく、録音エンジニアの技術も身につけることになった。音楽を制作することは、たんに楽器を演奏して曲を書くことだけではなく、音楽スタジオを使って磁気テープを編集することになったのだ。またさらに、テープ・レコーダーはミュージシャンたちがホーム・スタジオを持つことを可能にした。専門的で大規模な録音スタジオ以外にも、ミュージシャンたちは自宅で音楽を録音して制作できるようになったのだ。例えばボブ・ディランは、1967年にNYの田舎に部屋を借りて、2トラックのリール式のリール・テープ・レコーダーを使って、後のThe Bandとともに、後に(大量の海賊盤が出回ったので1975年に)『The Basement Tapes』としてリリースされることになる録音を行った(1950年代から60年代の磁気テープ録音が音楽制作に与えた影響についてはMillard 2000参照)。

3.カセット・テープの登場


 磁気テープは、ミュージシャンがホーム・スタジオで音楽を制作できるようにしたが、そのプロダクションとマーケティングはまだ企業のものだった。作られる音楽は変化したが、依然、録音されたレコードの流通は変化しなかった。1963年にフィリップス社が発売した「カセット・テープ」が、音楽の流通を変化させるきっかけの一つだった。フィリップス社はカセット・テープの特許を独占しなかったので、フィリップス社の規格は他の会社(特に日本の幾つかの会社)に採用されて、60年代終わりまでには標準的なフォーマットとなった。
 カセット・テープが音楽文化を変化させることができたのは、それが手軽な音楽メディアだったからかもしれない。カセット・テープは、片面最大45分の音楽を収録することができたし、取り扱いが容易で複製も録音も簡単にできた。70年代後半にはラジカセ(海外では「boombox」や「ghettoblaster」と呼ばれる)やソニーのウォークマン(1979年)が登場し、カセット・テープは音楽のための標準的なメディアの一つとなった。80-90年代には、カセット・テープは、新しい音楽を売り込もうとするプロモーターが関係者たちにディスクの代わりに渡すデモとなったし、都市文化と結び付けられて例えば黒人文化と結び付けられたりして、音楽文化を変化させた。例えば初期の「ラップ」は、家庭のステレオ・デッキやラジカセのダビング機能を使って作られて流通したジャンルだ。カセット・テープは「ラップ」を作って流通させるための媒体だったのだ。あるいは、インドやアフリカでは、カセット・テープが音楽流通の主要なフォーマットとして機能した。ラジカセは録音と複製が容易だったので、大会社の独占市場の牙城を崩して小さな音楽レーベルが入り込むことを許した。カセット文化は音楽文化を変化させたのだ。(カセットテープが、いわゆる第三国において様々な機能を果たす事例はたくさん報告されている。他に例えばエジプトの事例としてHirschkind2004などを参照。)

2009年9月30日水曜日

文房具としての蓄音機

1.文房具としての蓄音機


 私たちは音響テクノロジーを、音楽以外の目的のためにも用いる。電話、留守電、ラジオ、テレビ、映画、ヴォイス・レコーダー、自動販売機や切符売り場での案内音声、信号機の音声、等々。私たちは、決して、音楽のためだけに音響テクノロジーを用いるわけではない。音響テクノロジーは「音声」を扱うテクノロジーで、音楽は「全ての音声」ではない以上、それは当然のことだ。
 しかし音響テクノロジーが、そもそも「記録したものを音声として復元すること」を念頭に置いていなかったことは、少しばかり驚きではないだろか。つまり、

1.音響記録複製テクノロジーは、そもそもは音声を視覚的図形として記録するテクノロジーとして登場した。
2.そしてまた音響記録複製テクノロジーは、ある種の文房具としても受容されていた。

 音響記録複製テクノロジーは、(記録したものを音声として復元できるようになった後もしばらくは)音声を(「音声そのもの」ではなく)「文字」のように書き留めて記録するテクノロジーとして、ある種の文房具として(も)受容された。(音響メディアと「書記」との関連については、Gitelman1999, Gitelman2003が示唆に富む。)

事例1


 音響記録複製テクノロジーの「起源」は、1857年(に特許申請された)スコットの「フォノトグラフ」だ。これは、空気振動を視覚的な図形に記録する装置で、いわば地震計のような装置だ。フォノトグラフが記録した図形を視覚的に研究することで、音声の科学研究に貢献することが想定されていた。つまりフォノトグラフはある種の実験器具だったわけだ。しかし(あるいは、だからこそ)これは、その図形記録を音声として復元するメカニズムは持っていなかった。フォノトグラフは(直接的な影響関係はあまり無いようだが)、後の19世紀後半の音響テクノロジーの「起源」である。音響記録複製テクノロジーは、そもそもは音声を視覚的図形として記録するテクノロジーとして登場したわけだ。

事例2


 また、音声記録を音声として復元する機能を初めて実現した(それゆえ、常識的には「レコードの発明者」とされる)エジソンの「フォノグラフ」も、発明当初は、音楽のため(だけ)に使われる道具とは考えられていなかった。フォノグラフを発明した翌年、エジソンは、フォノグラフを商品として売り出すために10個の利用法を考えているが(エジソン1878、細川1990、ジェラット1981など)、それらは基本的には、(速記者やタイピストの代わりとなる)口述記録機械(口述の記録と再生)としての用途だった。

フォノグラフの用途:10項目


以下は、エジソンが考えた、フォノグラフが人類に益する10項目である。確かに音楽の再生機としての用途も念頭に置かれているが、口述の記録と再生がほとんどだと言えよう。

1. 手紙の筆記とあらゆる種類の速記の代替手段
2. 目の不自由な人のための音の本
3. 話し方の教授装置
4. 音楽の再生機
5. 家族の思い出や遺言の記録
6. 玩具
7. 時報
8. 様々な言語の保存装置
9. 教師の説明を再生させる教育機器
10. 電話での会話の録音機

 元のエジソンの記事は1878年の『ノース・アメリカン・レビュー』に掲載された「フォノグラフとその未来」というタイトルの記事(エジソン1878)(月尾・浜野・武邑2001:81-88)。

事例3


 文房具としての蓄音機は、20世紀以降もしばらく続いていた。オフィスで使われる仕事道具として、速記者を助けるための事務用器具としてフォノグラフを宣伝する広告映画が、1910年にもまだ作られていた。このYou Tubeの映像は、エジソン社の広告映画として有名ななものである。あるオフィスで、そこで働いている人々がうんざりして疲れている様子が描かれる。どうやら、タイピスト/速記者への指示が口頭だけではうまく伝わらずうまく書類が作成できないので、5時を過ぎても仕事が終わらないらしい。そこにエジソン社の営業マンがやって来る。エジソン社のフォノグラフを使えば簡単に口頭で指示を録音できる。また、タイピスト/速記者に録音済みシリンダーを渡しておけば、彼女は、こちらを煩わせずにシリンダーを何度も聞き直して正確かつ迅速に文字起こしができるし、彼女もそのほうが仕事を進めやすいだろう。つまりはエジソン社のフォノグラフを使えば、社員全員が仕事を能率的に速く終えられてみんな幸せになる、という広告だ。

20世紀には既にフォノグラフは音楽のためのメディアとして受容され始めていた。しかし他方では、音響記録複製テクノロジーは、声を書き留めて文字に直す「速記者」のような存在としても理解されたのだろう。フォノグラフは、「自動速記者」(とでも言うべき機械)として、「文字」のように書き留めて記録するテクノロジーとしても理解されたのだ。

事例4:『ドラキュラ』の事例


 あるいは、文房具としての蓄音機が登場する事例として、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(1897)をあげておきたい。小説『ドラキュラ』は、全編が登場人物の誰かの日記や手紙で構成されており、登場人物の一人であるイギリスの精神科医ジャック・セワードは、蝋管型蓄音機を文房具として常用しており、自分の日記を吹き込んでいる。その蝋管型蓄音機に吹き込まれた日記をこの小説のヒロインであるミナ・ハーカーがタイプ文書に打ち直したものが、この小説の一部となっている。
 文房具としての蓄音機の機能を重視して小説『ドラキュラ』を解釈しているのが、武藤浩史『「『ドラキュラ』からブンガク』(武藤2006)である。武藤2006は、この小説における「蓄音機」の意味を、過剰に、生産的に、そして魅力的に、解釈したものである。武藤2006に従えば、「蓄音機」はいわば真実を記録する文房具なのだと言えるかもしれない。
 武藤が重視するのは、1.「最初に蓄音機に吹き込んだ日記」を「タイプ文書に打ち直したもの」が小説の一部となっていること 2.小説の最後に、全てが終わって7年後にジョナサン・ハーカーが書いた「付記」の内容 である。そこには次のように書かれている。
「…私は長いこと金庫にしまっておいた当時の文書を、そのとき久しぶりで取り出して見た。読み返してみて驚いたことは、記録が構成されているこれだけの山のような材料の中に、これこそがだた一つの真正な記録だというものがないことであった。あとのほうのミナとセワードと私のノート・ブックと、ヴァン・ヘルシングの覚書を除いて、あとはタイプで打ったものばかりである。…」
つまり、タイプ文書は「真正な記録」ではないという言葉が、最後の最後に述べられているのである。言い換えれば、小説『ドラキュラ』は、最後の最後に、タイプ文書よりも音声情報こそが真正だという主張がなされる小説であり(33-35)、それゆえ、ミナが蓄音機の日記をタイプライターで文字起こしするのも、蝋管に録音された「秘密」を隠蔽しようとする行為として解釈されるのである(30-33)。そこで隠蔽されていると解釈(推理)されるのは、例えば、ブラム・ストーカーが私淑していたオスカー・ワイルドを擁護しようとする同性愛的傾向であったり、アイルランド人であるブラム・ストーカーによるイギリス批判である。
 今、これらの解釈の是非を問う準備はない。ただ、「(蓄音機に記録された)音声」が特権視されていることを確認しておきたい。武藤は、小説『ドラキュラ』では「(蓄音機に記録された)声」の特権視は、(視覚文化としての)近代批判(あるいは近代の対抗文化としての聴覚文化構築)という意図がある(35-40)と解釈している。文房具としての蓄音機は、「真実」や「秘密」を記録するものだったのかもしれないのだ。

(この映像の中ほどで、文房具としての蓄音機が見えます。)

2.文房具としての蓄音機の消滅と復活


 武藤2006:31によれば、蓄音機が音楽鑑賞用機械として家庭に普及し始めたきっかけは、小説『ドラキュラ』出版の翌1898年にW.B.オーウェン(UKグラモフォン社長)がロンドンの新聞に大広告を打って衝撃を与えたこと、である。つまり小説『ドラキュラ』執筆時は蓄音機普及前夜だったわけだ。
 もう少し詳しく検討すると、音響記録複製テクノロジーが音楽鑑賞装置としての存在感を持つようになるのは、1880年代後半から1890年代前半にかけてのようだ。80年代後半に、ベルとティンターのグラフォフォン(1885)、それを受けて改良されたエジソンの改良型フォノグラフ(1888)、あるいはベッティーニのマイクロフォノグラフ(1889)が登場し、1887年には発明されていたベルリナーの円盤型グラモフォンがようやく事業化されるのが、1894年である。とはいえ同時に、20世紀以降もなおしばらくは、文房具としての蓄音機が宣伝されていたわけだ。文房具としての蓄音機と音楽メディアとしての蓄音機は、数十年は並存していた、と考えるべきだろう。とはいえこの並存は、遅くとも1929年までには消滅したはずだ。というのも、1929年にはレコード業界の覇権争いに負けてエジソンがレコード業界から撤退し、個人でも録音できるフォノグラフが市場から消滅するからだ。

 その後、音響録音テクノロジーが一般大衆の手に戻り、録音済み音楽ソフトを個人が複製したり、『ツイン・ピークス』のクーパー刑事のように自分の声を録音するテクノロジーを、消費者が再び手に入れるまで、磁気テープの登場を待たねばならない。文房具としての蓄音機には、1930-40年代に、およそ20年以上の技術史的ブランクがあるのだ。

2009年9月25日金曜日

1.音楽と「レコード」-3.聴き方の変化

1.レコードと音楽の聴き方の変化


 音楽記録済みのレコードが商品となることで、「音楽」の聴き方は変化した。私たちは、家庭で、時には一人で、何度でも繰り返し好きなときに好きな音楽を聴けるようになった。家庭での個人的な音楽消費にはまだせいぜい100年程度の歴史しかないのだ。
 だから、レコードは音楽を「大衆化」したのだ、と言って構わないだろう。レコードが登場することで、音楽(西洋芸術音楽に限らず、あらゆる種類の音楽)に触れることができるようになった人口は間違いなく拡大しただろうし、生演奏で聞くことが難しい音楽(あまり演奏されない珍しい曲や時代的に古くてほとんど誰も省みないような音楽や遠い国の音楽等々)にも録音資料を通じてアプローチできるようになった。また、レコード・テクノロジーはそもそもポピュラー音楽に適したテクノロジーだったとも言えよう。というのも、初期のSPの片面の再生時間はせいぜい3-4分だったから、片面の再生が終わるたびに盤を交換しなければいけないクラシック音楽よりも、一曲を3-4分ですませることができる音楽のほうが都合が良いからだ。それにレコード・テクノロジーを使って音楽を楽しむには、楽譜を読んで自分で楽器を演奏する技術は必要がない。そんな文化資本を持たない人々でも音楽を楽しめるレコード・テクノロジーは、本来的に音楽を大衆化させるテクノロジーだったと言えるだろう。

2.家庭での音楽消費


 かつて音楽はどこにでもあるものではなかった。コンサート・ホール、宮殿、街の酒場、街角、等々の様々な場所にあるものだったかもしれないが、どこにでもあるものではなかった。少なくとも、どの個人の家庭にも常に音楽があるということはなかった。
 個人の家庭の中に入り込んできた音楽として、良家の子女が楽譜を購入して自ら演奏する音楽をあげることができる。これは19世紀に楽譜出版産業と楽器産業が新しい展開を見せた頃に登場したものだ。ピアノが大量生産されて普及し、職業的演奏家ではない人間でも家庭で演奏して楽しめるように、演奏しやすく簡単に書き直された簡易版演奏楽譜が出版されたのだ。勿論、大量生産されたといってもピアノは高級品だったし、ピアノを家庭に置いて演奏できるためにはそれなりの生活の余裕が必要だった。娘にピアノを学ばせることができるということは、新しい資本主義社会の中で新興ブルジョワが獲得した富の象徴であり、19世紀にはまだまだ家庭の音楽は高級品だったのだ(ピアノの歴史については西原1995を、「楽譜産業」については大崎2002を参照)。
 そうして家庭に定着していたピアノを、練習せずに手っ取り早く鳴り響かせる発明として自動ピアノを位置づけることができる。1889年に発明された自動ピアノは、紙製のロールに人間の演奏情報をパンチ穴で記録し、その穿孔部を空気圧で読み取ることで、ハンマー等を動作させて演奏を再現できる機械だった。自動ピアノは音量漸増減・速度可変機構などが取り付けられて改良されていき、家庭に音楽を共有する装置として合衆国で1920年代まで流行したが、その後、突然その寿命を終えた(渡辺1996と渡辺1997等を参照)。
 自動ピアノはレコードとほぼ同時期に発明されたものだが、両者の機械としての機能とその社会的機能は複雑に交錯するものだった。例えば、自動ピアノは(生楽器を演奏するのだから)再現できる音色は限られているが高音質なのに対し、レコードは、音質は悪くとも、既に存在するあらゆる音を記録してそれを再現するものだった。両者は機械的には単に別のものだったが、いずれも「家庭に音楽を供給する機能」を担うものではあった。そもそも自動ピアノをはじめとする自動演奏機械の歴史は、オルゴールや手回しオルガン以前の古くまで遡るもので、当初は自動ピアノの方が社会的には普及していった。しかし家庭に音楽を供給する機能は、自動ピアノよりもレコードやラジオに受け継がれ、やがては19世紀後半に発明された新しい音響テクノロジーは、音楽文化を根底から覆すことになったのだ。

3.「聴取モード」の変化


 記録された音楽を家庭で個人的に何度も聴くことができるようになり、どうなったと言えるか?
 音楽を深く聴くモードと軽く聴くモードの両方が行われるようになったと言えるのではないか。前者については、反復聴取を行うことで、それまで聴き取ることができなかった音楽全体の構造を把握するような「構造的聴取」(アドルノ1999b)が容易になったし、記録されなければ気づかなかっただろう音響の細部に集中する聴取が可能になったと言えよう。また後者については、いわゆるBGMとしての音楽聴取の誕生をあげることができよう(ランザ1997)。音楽を聞き流すという贅沢はそれまでもあっただろうし、聞き流される音楽がレコードに記録されたものである必要は無い。すでに1880年代から90年代にかけて、電話回線を通じて音楽を家庭に送信するというサービスが実用化されており、わざわざコンサート・ホールに行かずとも家庭で音楽を聴くことができた(吉見1995)。とはいえ、自分の好きな音楽を自分が好きな時に聴き直すためには、電話線であろうと無線であろうと放送される音楽ではなく、レコードに記録された音楽が必要だ。所有していて何度も聴き直せるからこそ音楽を聞き流すという贅沢が大衆化するには、音響を記録して複製する、「レコード」が登場する必要があったのだ。

2009年9月24日木曜日

音響を直接操作したいという欲望

1


自分の意のままに音を操りたい。
古今東西、人は様々な機会にそう考えてきたに違いない。たぶん。

声を出して誰かに話しかける、遠くにいる人に呼びかける、何かに驚いて声を出す、一人大声で夜空に叫ぶ、等々。
ほとんどの人間は声を使う生物だから、人は日常的に声を使う。だからといって人は自由自在にどんな声でも出せるわけではない。口や喉の形は決まっているのだから出せる声には制限がある。(何代目の)江戸家猫八でも出せない音はあるし、ヴォイス・パーカッションがある種の「ワザ」なのは、それが、声を使って出すのは難しい種類の音を声を使って出すからだ。「声」は、自由自在に音を扱うための完璧なツールではない。

あるいは人は、音を扱うために「楽器」を使う。声と比べた「楽器の利点」は明確だ。「楽器」は、「声」では出せない音域の音や「声」では不可能な音響変化(リズムや音高変化)を作ることができる道具だ。楽器は、声では出せない高い/低い音を出せるし、声では不可能な音の急激な変化や速いパッセージを演奏することができる。とはいえ勿論、「楽器」では出せないが「声」なら出せる種類の「音」もたくさんある。楽器も声も人間が音を使うためのツールだけど、万能じゃない。

あるいは人は、意のままに音を操るためのツールとして「楽譜」を発明した。人は、音を視覚的な記号に変換して「書くこと」で、音を意のままに操ろうとするようになった。西洋芸術音楽に限定されるかもしれないけれど、人は、音を視覚化して記号に変換することで、音響操作能力を拡大しようとした。そう考えてみよう。

あるいは「音を意のままに操ること」とは「音を手にとるように自由自在に操ること」だと考えてみよう。
音を「手にとるように」すること。
と聞いて、中川の頭に瞬時に浮かぶのは、「コエカタマリン」と『はじめ人間ギャートルズ』の「叫び声」だ。のび太が「ワ」の字が大好きなのは「ワ」の字は遠くに飛んでいく時に乗りやすいからだし、『はじめ人間ギャートルズ』では、とうちゃんの叫び声は石になって遠くにいるマンモスを倒せたけれどゴンの声は弱かったので倒せなかった(というお話があったような気がするけれどあまり良く覚えていない)。どちらにしろ、発せられた声は物質化することで手で扱えるものになった。「音を物質化して物質化した音を操ること」で「音を手に取るように自由自在に操ること」は可能になるのだ。とはいえ現実に「音を操作するために音を立体的に物質化する」という試みがあったのか、あるいは今日ではあるのかどうか、知らない。たぶんなかったし今でもないと思う。今日のテクノロジーを用いたヴァーチャル・リアリティの中でなら可能な気はするが、実用化された事例は知らない。

そもそも「頭の中で自由自在に音を思い描くこと」なんか不可能で、人は何かの「道具」を使わなければ音を「想像=創造」することは不可能だ。(「思考を言語という道具を使って表現する」のではなく、「言語を使うことで初めて思考できる」ように。)なので、人は、音を操作するためには何かの道具を使う必要があった。

2


そのための手段の一つとして、(「音を物質化する」のではないにしても)「音を視覚的な対象物とすること」をあげることができる。これは、音を視覚的な記号に変換しようとする「楽譜」とは違う場所で、18-19世紀の「音の視覚化と対象化」を志向していたパラダイムの中で夢見られていたことだった。そしてこのパラダイムこそが、19世紀以降の新しい音響テクノロジーを生み出したものだった。

「音の視覚化と対象化」というコンテクストとはどのようなものか?これについては、Sterne2003が詳しい。
スターンによれば、18-19世紀にかけて耳医学・生理学・音響学といった領域でパラダイム変化が生じた。そこでは、耳や「聴覚」や音が、視覚的に知覚されて操作される対象となった。つまり、耳の諸機関の部分構造やメカニズムが理解されて医療の対象となり、聴覚神経を通じた音響の伝達と知覚のメカニズムが研究されるようになり、音響の大きさや長さや「波形」が(例えば、板の上に置かれた砂を音響振動が一定の図形-クラドニ図形-へと変換することを通じて)視覚的な記号へと変換されることで、音響の物理的性質が研究されるようになったのだ。
例えば、1850年代にレオン・スコットが考案したフォノトグラフ
これは、ラッパ(フォノグラフで言えば送話口にあたる部分)に取り付けられた振動膜が空気振動としての音を捉え、膜に取り付けられた針(豚の剛毛)が、その振動膜の振動を、油煙紙(あるいは円筒に塗られた油煙)に波形として記録する機械だった。つまり音声を波形として油煙紙に記録する地震計のような装置であり、音(空気振動)を視覚的な図形へと変換して音響を科学的に計測するための道具として考案されたものだ。このフォノトグラフは、ほとんどの音響メディア史では、1877年にエジソンが発明したフォノグラフと直接的な関係はないが先駆的な、しかしまだ再生メカニズムを持っていない機械として、「音の記録装置の源流」(岡1986:14)として位置づけられる(他にChanan 1995: 23: 早坂1989;Welch and Burt 1994: 6など)。とはいえ、「音の視覚化と対象化」というコンテクストの中では、フォノトグラフは(「新しいパラダイムの起源」となると同時に)「音の視覚化と対象化というコンテクストの帰結」として位置づけられるものだ。

「音の視覚化と対象化」というコンテクストこそが、1877年のエジソン以降の音響記録複製テクノロジー(音響を視覚的な記号に変換してその変換された記号を音響として復元するテクノロジー)を生み出した。この後も、音を直接的操作しようとする欲望は、この「音の視覚化と対象化」への志向と絡み合いながら展開していくことになる。またポストを改めてまとめておきたい。
(このブログは、企画中の音響メディアに関する共著の一部の下書きに使うつもりで書いています。なので問題意識や構成が十分慣れていなかったり、細かな事項のチェックが不十分なままのものもありますが、まずは、ざっくりと共著の構想を固めるために、書ける部分を書いています。なので、何か間違いがあったり、書いていない部分に何かご意見やご感想がありましたら、是非ともお知らせください。できるだけ早い段階で「完成版」を投稿したいと思ってます。)

2009年9月18日金曜日

1.音楽と「レコード」-2.「レコード」の浸透

1.1920年代の音響文化:電気録音の開始


 20世紀後半の音響文化の基盤は1920年代に成立したと考えておきたい。1922年にラジオ放送は正式に始まった。1927年にセリフと音響が映像と同期するトーキー映画(『ジャズ・シンガー』)が初めて公開された。また1925年以降、電気録音で録音されたレコードが発売されるようになり、レコードの音質が飛躍的に向上した。ラジオ放送、トーキー、電気録音、いずれも1920年以前に試みられていたことではあるが、本格的に行われるようになったのは1920年代以降である。ラジオは音声放送メディアを生み出し、トーキーは映像と音声が同期する動画メディアを生み出した。そして電気録音は、それまでとは格段に異なる新しい電気音響の世界をもたらした。
 1920年代にはその他にも多くの後代に大きな影響を与えたものが生み出されているが、音響テクノロジー史にとっては、録音の電化が最も決定的な出来事だったと言えるかもしれない。電気録音が可能になったのは、1905年にリー・ド・フォレストによって三極真空管が発明されたからだ。真空管のおかげで音響を電気的に増幅することが可能となり、おかげで、それまでのアコースティック録音では記録できなかった音域と音量を持つ音を録音できるようになった。真空管の実用化によって、電気音響という新しい世界が生み出されることになったのだ。

2.レコード技術の革新


 先に触れた円盤化、そしてこの電気化の他に、レコード・テクノロジーにおける大きな革新は、LP化とステレオ化である。これらの革新によって、1950年代以降に「ハイ・ファイ」信仰が加速された。1950年代に、記録された音響が記録時に出された音と同じもの(あるいは限りなくそれに近いもの)として再生される、という理想が熱狂的に追求される「ハイファイ」熱が起こったのだ。
 まずLP化について。1948年6月21日にコロンビア・レコードが、片面23分のLP(ロング・プレイング・レコード)を発表した。このLPでは、演奏時間が大幅に延長され(従来の約5-6倍)、音質も大幅に向上した。もはや人々はクラシック音楽の曲の途中で盤を入れ替える必要はなくなった。電気録音も重要な革新ではあったが、LPは、従来の蓄音機では再生できない全く新しいフォーマットだという点では、電気録音以上にレコード史上で画期的な事件だったと言える。同時期、1949年にRCAヴィクターがコロンビアに対抗して出した45回転レコードは、コロンビアのLPにとってかわる新しいフォーマットとはならなかったが、小さくて丈夫だったしオート・チェンジャー機構に優れていたので、「ドーナツ盤」として、ポピュラー音楽の領域で「シングル」をリリースするのに適したフォーマットとして、定着していった。
 またステレオ化について。ステレオ・サウンドは両耳で聞かれた音源を再現しようとするもので、空間的な広がりと明晰さと現実感を再現するものだった(「ステレオ、両耳聴」の起源については福田2008、Sterne2003参照)。初めてステレオ・サウンドを本格的に家庭に導入したのは、1950年代の音楽記録済みの磁気テープだった。音楽記録済み磁気テープは1950年に発売されていたが、1954年にはステレオ・ミュージック・テープ第一号が発売された。ステレオ方式で再生可能なLPが販売されるようになるのは1950年代後半である。1953-54年から一部のレコード会社は将来を見越してステレオ・マスター・テープへの録音を開始していたが、1957年にステレオLP方式(従来のLPと同じ録音時間を保持しつつ、一本の溝に二つのチャンネルを刻みつける方式)が発表された。1958年9月までには、合衆国のレコード会社のほとんどが市販用ステレオLPを販売するに至った。
 LP登場とほぼ同時期にハイ・ファイ信仰が高まり始めた。LP(とそして後にはステレオ録音)によって音響的可能性が向上したので、ほとんどのジャンルの音楽の録音が、コンサートで聴ける音に近いリアリティを持つものとして理解されるようになった。「ハイ・ファイ」という概念の起源は19世紀まで遡ることができるが、アンプやスピーカーなどレコードを再生する装置に対する関心が急激に高まったのは第二次世界大戦以降である。はじめは1949年以降にアメリカの幾つかの都市で開催されるようになったオーディオ・フェアに「オーディオ・マニア」たちが集まるだけだったかもしれないが、すぐにハイ・ファイ信仰は機械いじりには興味のない人々にも波及し、彼らも、家庭で聞く音楽がコンサート・ホールやオペラ・ハウスにおける生の音楽の演奏にできるだけ近いことを望むようになった。すでに録音は「生演奏」の代わりを務め始めていたが、その傾向ますます推し進められていったのだ。

3.音楽産業としてのレコード産業の展開


 アメリカのレコード産業は1910年代に黄金時代を迎えて1921年にいったんピークに達した後、1920年代には徐々に落ち込んでいった。1921年には初めて1億600万ドルという大台にのったレコードの売り上げは、1925年には1921年のほぼ半分の5900万ドルにまで減っていた。最大の原因はラジオの急速な普及であり、電気録音による音質の改善とレパートリーの拡大は、そうしたレコード業界に対するカンフル剤として機能することが期待されていた。
 電気録音の登場でレコード業界は多少は回復したが、1929年10月24日に大恐慌を迎え、どん底の1930年代を迎える。(例えば、1929年度には7500万ドルまで回復していたのが、30年度には一挙に40%近く落ち込み4600万ドルに、31年度には1800万ドルに、32年度には1100万ドルまで落ち込んだ。)その後、ジュークボックスの流行(それに伴う、レコード産業におけるクラシックからポピュラー音楽へのレパートリーの移行)、音質の向上などのおかげで、1930年代後半にようやくアメリカのレコード業界は不況から脱し始める。そして第二次世界大戦を経て、戦後、LPとステレオ・サウンドが登場するのだ。
 音楽産業としてのレコード産業について考える時、この時期に起きた興味深い事件に、1942年にアメリカ音楽家組合(AFM)が行ったストライキがある。1942年にAFMは(というよりも、会長ジェイムズ・ペトリロ個人が半ば強引に)、レコードがジューク・ボックスやラジオ放送などに使われて音楽家の生活権が脅かされていることを理由に、レコード印税と演奏料の値上げをレコード会社各社に要求し、受け入れられない場合は7月31日以降録音を行わないという声明を発表した。各社は期限までに大急ぎで録音ストックを作ったが、この無期限ストにいつまでも対応することは不可能で、まず初めに1943年9月にデッカがペトリロの要求をのんだ。1944年にはコロンビアとRCAヴィクターもペトリロとの和解に応じ、27ヶ月に渡るAFMのストは終焉した。このストライキは、レコード産業の着実な発展を阻害する時代錯誤な事件と捉えることもできるだろうし、レコードという新しいテクノロジーが、関連諸領域における利益分配構造が変わって、対立構造がある種の軟着陸へと変わった事件と考えることもできるだろう(後者は、増田・谷口2005における解釈)。いずれにせよ、このストライキがはっきり示していることとして、遅くとも1940年代にはレコードに記録された音楽が人間が(生)演奏する音楽の代わりを務めるようになっていたこと、を指摘しておきたい。でなければ、演奏家たちがストライキを起こす必要はなかったはずだ。音楽産業としてのレコード産業は、着実に発展し、定着していたのだ。

2009年9月11日金曜日

1.音楽と「レコード」-1.「レコード」の誕生

1.「レコード」は音を記録し、音楽を商品にした。


 音楽が小売業者が扱う商品になったのは、19世紀末に「レコード」が発明されたからだ。それまで、音や音楽は生じた瞬間だけその場に存在してその後は消えるものだったし、他の場所では聴くことができなかった。しかし1877年にアメリカ人のトマス・エジソン(Thomas Edison)が「フォノグラフ(円筒型蓄音機)」を発明して以降、音と音楽は物理的に記録されて復元されるものになった。こうして「レコード」以降、音楽は記録された媒体で小売される、小売商品になったのだ。

 エジソンが発明したフォノグラフは、円筒に巻きつけた錫(すず)箔に記録した振動を音として再現できる機械だった。これは個人が音を録音することができた。また1887年には、エミール・ベルリナーなる人物が「グラモフォン(円盤型蓄音機)」という機械の特許を申請した。これは円盤型の機械で、円盤上に記録された振動を薬剤で固定して凸板を作り、凸板を用いて作った複製から音を再現できる機械だった。グラモフォンを使って個人は録音できなかったが、円盤型のレコードは複製の制作が簡単だったので、記録された音楽を売買するレコード産業においては、円筒型ではなく円盤型が普及することになった。円盤型のグラモフォンのおかげで、レコード産業は音楽産業として発展していくことになったと言えるだろう。

2.「レコード」は初めから音楽のための機械ではなかった。


 とはいえ、「レコード」は、初めから音楽を記録して再生するための道具として発明されたわけではない。
 まず、エジソンの「フォノグラフ」には先駆的な発明があった。フォノグラフが発明される30年前にフランス人のレオン・スコットが発明した「フォノトグラフ」という機械だ(Sterne2003, WP1-4参照)。これは、音を記録する機械だったが音を再生する機械ではなかった。「フォノトグラフ」は、「phon + auto + graph」という名前の通り、音声(phone)を自動的に(auto)書き写す(graph)装置で、音を再生するための機械ではなかった。そもそも「フォノトグラフ」は、科学者たちが、空気振動という物理現象を視覚的に記録するための機械として考案されたものだった。これは原理的には後のフォノグラフの先駆的な装置だったが、記録された波形を実際に鳴り響く音へと復元するメカニズムは持っていなかった。「フォノトグラフ」にとって重要だったのは音を視覚的な記録として残すことだったので、視覚的な記録をさらに聴覚的な音として復元するメカニズムは不要だったのだ。
 また、エジソンの「フォノグラフ」は、はじめは音楽のために使われる道具とは考えられていなかった。例えばエジソンは、フォノグラフを商品として売り出すために10個の利用法を考えているが(エジソン1878、細川1990、ジェラット1981など)、それらは基本的には(速記者やタイピストの代わりとなる)口述記録機械(口述の記録と再生)としての用途だった。

3.音楽産業としてのレコード産業の成立:円筒と円盤の対立


 初期のレコード産業は必ずしも「音楽産業」ではなかった。「レコード」が音楽鑑賞媒体としての存在感を示し始めたのは1890年代以降である。エジソンをはじめ、多くの発明家、実業家たちによる様々な事業化が試みられていたが、音楽産業としてのレコード産業が確立して「レコード」が音楽の容器としての存在感を示し始めるまで、フォノグラフが発明されてから少なくとも10年以上かかったのだ。また、私たちが普通「レコード」という言葉で思い浮かべる音楽記録済みレコードは、1887年にベルリナーが発明した「グラモフォン(円盤型蓄音機)」である。グラモフォンも、発明後に改良が重ねられて1895年にベルリナー・グラモフォン社が設立されるまでは本格的に事業化されなかった。
 エジソンはレコードは「発明」したかもしれないが、後に主流となった円盤型レコードを発明したわけではない。円筒型のフォノグラフには自分で録音できるという利点があったが、円盤型のほうが大量生産が格段に容易だったので、記録済み音楽を売買するレコード産業においては円盤型が普及していった。エジソンは円筒型のレコードに拘り続けたが、1902年にはエジソン社ともう一社しか円筒型は生産しなくなり、1929年には円筒型レコードの生産を中止してレコード業界から撤退した。録音機能がなかったグラモフォンこそが後の「レコード」の直接的な先祖となったのだ。

まとめ


 あるテクノロジー、ある技術が発明された後、それがすぐさま現在のような形で使われるようになることはあまりない。「レコード」もその一つで、初めから音楽のための「メディア」として発明されたテクノロジーではない。また、あるテクノロジー、ある技術が、たった一人の天才によってゼロから発明されるということもあまりない。「レコード」に類似した技術は既にエジソン以前に存在していたし、「レコード」は、エジソンのフォノグラフよりも、後のベルリナーのグラモフォンこそが直接的な先祖である。テクノロジーと、それが社会的に定着した形態である「メディア」は異なるのである。

「音楽とテクノロジー」について

 学生は、大学のレポート執筆時の典拠に使わないように!あくまでもこれは「とっかかり」にしか使ってはいけません!

このラベルがつけられた文章について


 「音楽とテクノロジー」というラベルがつけられた記事の文章は、2008年8月に書いたものだ。一年前の夏休みに、私は、結局は陽の目を見なかった共著のために、19世紀以降の音響テクノロジーは音楽を大衆化して個人化した、という趣旨の物語を作り出すことにした。安易な物語かもしれない。しかし私は、今の音楽や音楽を取り巻く今の状況や音響テクノロジーなるものの性質と歴史について考えるためには、まずは乱暴で安易であろうとも大まかな枠組みが必要だ、と考えていた。だとすれば安易でも良いし安易なほうが分かりやすくて良いかもしれない。それに私はその頃、日本語で簡単に参照できるレコード史が、いまだに基本的にはジェラット1981しかない状況に驚いていた。もちろんジェラット以降も幾つかのレコード史や音響テクノロジー史は書かれていたのだが、それらはただの技術史でしかなかったり、あるいは、あまりにも哲学的な歴史記述であるように思われたのだ。私は、自分が音響テクノロジーについて考える時に使いやすい、分かりやすい準拠枠が欲しかった。だから私は自分でそれを作ることにした。
 とはいえ、この文章を書く直接的な理由だった共著の話は頓挫した。私のテクノロジーの話を補完するはずの「音楽の話(20世紀のポピュラー音楽の話)」が書かれなかったのだ。これでは「共著」にならない。しかし書いたものを眠らせておくのはもったいないし、今でも、乱暴で安易かもしれないが、音響テクノロジーについて語るための大まかな枠組みが必要な状況には変わりがないと考えている。昨年書いたものをブログで公開しておこうと思った所以である。公開に当たり、明らかに誤った情報以外の内容は修正しないが、下書きの段階ではきちんと整備していなかった参考文献情報を記しておく。

 誰かの役に立つかどうかはあやしいけれど、こういう考え方もあるのだ、と思ってもらえれば幸いです。あと、参考文献をたどっていくきっかけになってくれれば幸いです。てきとーに楽しんでください。

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参考文献について


 「音楽とテクノロジー」の文章の中で、特に典拠や書誌情報を記さないまま書いている事項は、基本的には全て、以下の文献に依拠しています。まず「レコード史の基本1」の文献をチェックして大まかな流れと記述事項を決定した後、「レコード史の基本2」の文献をチェックし、個別事項に関して個別の専門文献をチェックする、という流れで執筆しました。

レコード史の基本1
Chanan 1995, Eisenberg 1987, 細川1990、ジェラット1981、, キットラー2006、Welch and Burt 1994

レコード史の基本2(1の補足として使用)
Kenny 1998, Millard 2000、岡1981、岡1986、リース1969、山川1992、山川1996

聴覚文化論の基本
Sterne2003, Bull and Back 2003, Drobnick 2004, Erlmnn 2004, Morton 2000, Smith 2004, Thompson 2002, Vanini 2009など

文献の書誌情報はリンク先の文献目録を参照してください。

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2009年9月9日水曜日

空に音はあるか?

空に音はあるか?
空に耳をすませば、中学生たちが歌う「カントリー・ロード」以外にも音は聞こえるのか?
詩人の問いかけに対して、身も蓋もない言い方をしてみれば、それは「音」と「空」の定義による。ただ、身も蓋もない言い方をしたつもりでも、この問題についてちょっと考えてみるだけで、「音」という概念はけっこうあやふやなことが分かる。
「音」という概念に「電気信号」概念を関連させるかどうかで、空には音があったりなかったりするのだ。

1.「音」をあくまでも可聴域内の音波(20Hz~20000Hz程度)と考える場合
この場合、空に音があるかどうかは、「空」が音の伝達媒体(空気)を含むかどうかで決まる。つまり、空の中でも空気を含まない部分には音もない。
その「空」が空気を含むかどうかを調べるのは大変だろね。

2.頭の中で想像しただけの「音」も「音」として認める場合
物理的な存在論的基盤を持つかどうかに関わらず「音」が存在するとすれば、そりゃあ、音はどこにでも存在する。

世界中の人々の心の中には常に未来への希望が溢れたファンファーレが流れているのかもしれないし、僕の心の中では最近は常に昨日聞いたデヴィッド・バーンの歌声が流れているし、男と女の間には深くて長い河が流れているのかもしれない。

僕も馬鹿じゃないので、「空に音はあるか?」という詩的な問いかけは、文字通りの「音の存在の有無」を問いかけているのではなく、「空にはXの象徴となるような’音’があって欲しい」というある種の祈りのようなものであることは分かる。Xは「私の日々の生活に潤いをもたらしてくれるもの」かもしれないし「私と私の友人との日々の交流に喜びをもたらしてくれるもの」かもしれない。でも、面と向かって話していない時に詩的な問いかけに応えるつもりはない。

「物理的な存在論的基盤を持たない音=頭の中で想像されるだけの音」ってのは、かなりある。
記憶の中の音は、全てそうだ。誰かが何かを話している様子を思い出している時、頭の中で流れている音は、そうだ。あるいは宇宙空間には土星や金星が動く音が流れているのかもしれないし、映画の中では宇宙空間の中でロケットが発信する爆音が流れてるし、マンガの中にはたくさんの描き文字があるからマンガを読んでいる間の僕の頭の中にはたくさんの音が生み出される。
そういうのを「コンセプチュアル・サウンド」と呼んでおけば、1960年代以降のフルクサスの音楽や、1980年代以降のある種のサウンド・アート(美術館に展示できる、実際には音を出さないサウンド・アート)を考えるのに便利だ。でもそれはまた別の機会に考えることにしたい。

3.可聴域外の電磁波を処理したものも「音」として考える場合
この場合、「空」がなんだろうと「空の音」は存在するし、「宇宙の音」も存在する。(要するに、この投稿ではこの情報を伝えたいのだ。)
例えば

例1:ビッグ・バンの音をモデリングしたもの
http://www.astro.virginia.edu/~dmw8f/sounds/aas/sounds_web_download/index.php

例2:宇宙の音
http://www.spacesounds.com/
:ここからは恐竜の音とかも聞けるけど、どうやって作ったのかはわからない。

例3:オーロラの音
http://www-pw.physics.uiowa.edu/mcgreevy/
http://www.auroralchorus.com/
http://members.tripod.com/%7Eauroralsounds/
:「recordings of VLF ”auroral chorus”」はオーロラの電磁波を処理したもの。(今まで一度も確かめられたことはないけど)オーロラが実際に音を発したという報告はたくさんあるが、これはそうではない。。

つまり、「可聴域外の電磁波」でも「電気的に処理され録音された音」として存在することができる。
この場合、「音」の概念には「電気信号」概念が介在している。(介在し始めたのは1920年代らしい。)電気的に処理された信号を「音」として考えているのだから。
(細かな話だけど、「音」概念の歴史的変遷をきちんと調べた人はいないと思う。なので僕もこれ以上はよく分からない。)
とにかく、「音」の表象は変化してきたのだ。だから「空に音はあるのか?」という問いに身も蓋もない答え方をするのは、なかなか難しいのだ。

4.ちなみに1
「音」として電気的に処理された音を認めてしまうと、例えば「蜂の羽音の録音」とは何か?ということがよく分からなくなる。蜂の羽音は可聴域内の音波だけど、同時に可聴域外の音波も発している。なので、その音波=電磁波が録音機器に影響を与えて、録音時に人間の耳には聞こえていなかった「音」も同時に録音されてしまうから。

5.ちなみに2
宇宙空間には、雷とか空電(Sferics)のような自然現象として「可聴域内の電磁波」もある。それらは、媒体としての空気が存在しないので「音」としては存在しないけど、電気信号として拾われると「音」として現象化する。これらの電磁波は、電話とかラジオの発明以後に初めて「音」として現象化した。
この雑音を初めて聞いたのは、ベルの助手で、後のIBMの社長の父親のトマス・ワトソンらしい。電話交換手の多くがこの雑音を聞いたという記録が残っている。

以上、2004-2005にUC, DavisでDouglas KahnのHistory of Sound in the Artsの授業(1/13/2006: Nature: environmental forces and animals)で、オーロラの音と蜂の音を聞いて考えたことを、missourifeverさんのはてなdiary(5/29/2006)のコメント欄に書き込んだものです。
トマス・ワトソン関連の情報は、その授業でDougがくれたDougのドラフトを参照しました。このドラフトがパブリッシュされたのが、これみたい。→参考:Douglas Kahn: "“Radio was discovered before it was invented,” Relating Radio: Communities, Aesthetics, Access, edited by Golo Fölmer and Sven Theirmann (Leipzig: Spector Books, 2007)."