2010年5月7日金曜日

Aesthetics (Online Version) に論文を掲載しました。

NAKAGAWA, Katsushi. 2010. “What is 'sounds which are just sounds'? : On the Acceptance of John Cage's Indeterminate Musical Works.” The Japanese society for aesthetics, ed. Aesthetics (Online Version). 14 (April, 2010): 42-54.

美学会の国際版『美学』のオンライン版に、過去の日本語論文の英訳を掲載しました。元論文はこれです。
中川克志. 2008a 「『ただの音』とは何か?-ジョン・ケージの不確定性の音楽作品の受容構造をめぐって」 京都市立芸術大学美術学部(編)『研究紀要』第52号(2008年3月):1-11。

書誌情報等は3.学術論文 (Audible Culture)をご参照ください。本文とアブストラクトは、美学会のウェブサイトをご参照ください。
→[Abstract] [Text (PDF)]
日本語論文の英訳なので、日本人は読まないだろうけど英語圏の研究者に自己紹介するときに便利、という代物です。

この論文では、「ただの音」という表象の成立条件を確定することで、ケージの「実験音楽」を相対化しようとしました。
そのために、ケージの不確定性の音楽作品の成立条件を「音楽作品の同一性」の問題圏から考察する、ということをしました。
今読み直すと、やたらふつうのこと(ケージの「ただの音」は、そう命名された虚構に過ぎないってこと)を、かなり形式的に(音楽作品の同一性を巡る議論やL.ゲアの音楽作品論を持ち出して)議論している感もあります。

とはいえこの論文は、ケージと音楽作品概念に関する議論よりもむしろ、90年代後半以降の「音楽学的なケージ研究」に対する批判としては、今でも機能するんじゃないかと思います。それらのケージ研究が、ケージの音楽の中でも不確定性の時期以外の、「楽譜」のようなものが作られるものしか扱えないのは、ある種の楽譜中心主義イデオロギーから脱していないからだ、と批判するものとして。
とはいえ今や、必ずしも「楽譜」研究ではないゲンダイオンガク研究も出てきているようですが。

今なら、ケージを相対化するためには、違うアプローチをとると思います。ケージの音楽作品の同一性云々とかではなくて、「変な音楽」が「変」と感じられる美的条件を考える、とか。
もしかしたらこの論文は、僕がケージ的な実験音楽から距離をとるために役立ったかもしれないです。


この論文とはけっこう長い付き合いです。
もともと2003年に城陽に住んでた頃に書きはじめたものが元論文だけど、その後、色々ドタバタがあったので、発表できたのは、2006年に京都美学美術史学会で発表した時で、それを京芸大の紀要に書かせてもらいました。
これは、基本的には、その英訳論文です(多少縮小してます)。

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