1.PCM録音システム、サンプリング・テクノロジー
音のデジタル化という発想の源泉は案外古く、20世紀前半にまで遡る。1939年にアメリカのA・H・リーヴスが、PCM(Pulse Code Modulation パルス符号化変調)という方式を発明したのが最初である。これは、信号伝送にパルスを用いることで雑音その他の影響を受けない通信伝送方式として考案されたものだが、技術的な限界から実用には至らず、理論的にその可能性が予測されたに留まった。その後、このPCM方式は理論的・現実的に改良されていき、1962年に初めて電話の音声伝達のために用いられた。長距離電話で話しやすくなったのも、1969年のアポロ11号による人類史上初の有人月面着陸の映像が地球で明瞭だったのも、このPCM方式のおかげである。このPCM方式を用いて、1965年にNHKはPCM録音機の実験試作を開始し、1966年に試作機を完成し、1967年にステレオ仕様の実験機を公開した。
世界初のPCM録音レコードは、これを用いて録音され、1971年4月にコロンビアが発売したコンサート録音『打!‐ツトム・ヤマシタの世界』である。1978年に初めて欧米でデジタル録音された最初のレコードが発売され、1983年頃にようやく世界的に(クラシック音楽の分野で)PCM録音が一般化することを考えると、これは極めて先駆的な試みだった。コロンビアは70年代に自社開発によるPCM録音システムを開発し、この録音機を使って、日本のレコード会社としては初めてヨーロッパで自主録音を行った。デジタル録音の登場は、それまで後進国だった日本が録音の世界で初めて先進国となった瞬間なのだ。(日本が初めてデジタル録音方式を実用化したことが強調されているのは、岡1986である。)
このPCM方式が重要なのは、PCM録音システムだけが、実用化された(ほぼ)唯一のデジタル録音システムだからだ。PCM方式によって、音声などのアナログ信号はデジタル・データに変換される。例えば音楽CDの規格は、サンプリング周波数44.1khz, 量子化ビット数16bitである。この場合、音声のアナログ信号は、1/44100秒毎に(44.1khz)、0~65535に段階分けされて(16bit:2の16乗)、0と1の二進法で記録される。この、1秒間に4万4千1百回、音声を数値化する作業を「サンプリング」と呼ぶ。音声のアナログ信号は、このサンプリング・テクノロジーによって、デジタル・データに変換されるのである。
2.デジタル録音のメリット
デジタル録音にはアナログ録音には無い利点がたくさんあった。制作者がレコードの原盤を制作する時の利点をあげてみよう。まず、デジタル録音方式では、トラック間の録音と再生のタイミングを完全に同期させることができた。また、機械的な問題がほとんどなくなった。(デジタル再生方式も同様の利点を得ることになった。)例えば、走行系のワウ・フラッター(テープなどの走行の不安定さが原因の音揺れ)などに起因するノイズや音の変調がほとんどゼロになった。またデジタル録音では、0と1の連続さえ正確に保たれていれば半永久的なデータ保存が可能で何度コピーしても音質劣化が生じない。つまり、磁気テープ録音では避けられなかった、トラック間の非同期や磁気変調が原因のノイズがなくなった。またデジタル録音では、サンプリング周波数や量子化ビット数を大きくすることで、記録する音域は格段に拡大できた。音質が目覚しく向上したのだ。(ここで、MIDIを用いた音楽制作から、ProToolsを用いた音楽制作やDTMへの移行について概観したいところだが、その準備はない。管見の限りでは、80年代以降の音楽制作環境の変化について整理している仕事を知らない。ご存知の方がおられましたらご教示お願いいたします。)
3.デジタル録音とデータを記録する媒体
このように、デジタル録音は過去100年のアナログ録音とは全く異なるものだ。デジタル録音がアナログ録音と決定的に異なるのは、記録されるデータとデータを記録する媒体との関係だ。デジタル録音では、データが記録される媒体は何でも構わないし、逆に、記録媒体はそこに記録されるデータの内容が何でもあっても構わない。それは音でも静止画でも動画でもテキストでも構わない。音楽と記録メディアとの必然的な物理的関連性は消失したと言っても構わないだろう。しかしアナログ録音の場合、記録媒体との結びつきは決定的である。基本的にレコードに記録されるのは音声だけだ。そして何より、アナログ録音は、記録媒体の物質性に縛られている。アナログ録音では、記録された媒体が物質的に変化すると記録された音響も劣化してしまう。そして、録音再生複製伝送等々の全てのプロセスで音声は物理的な接触や摩滅を受けて必ず変質してしまう。
対してデジタル録音の場合、音の記録は、もはや物質的な媒体に縛られた「モノ(のようなもの)」として存在する必要はない。デジタル録音されたデータはどんな媒体に記録されても構わない。録音再生複製伝送の全てのプロセスで、0と1の配列さえ正しく読み取られれば、記録されたデータが変質することもない。それゆえ、デジタル・データとして記録された音は、何個でも全く同じ複製を作り出すことができる。記録された媒体が物質的に変化すると記録されたデータが変化してしまうのは同じだが、デジタル・データとして記録された音には唯一無二の「オリジナル録音」があるのではなく、全く同じ無数の「コピー」が存在するのである。
デジタル録音が登場したことで、音声録音・編集技術は、磁気テープとは比べ物にならないくらい消費者のものになったと言えるだろう。初期のデジタル録音は、ヴィデオ・テープ・レコーダーやコンピュータ用データ・レコーダーに記録されていた。消費者がデジタル・データの恩恵に分かり易く与るようになったのは、CDが登場して音響再生がデジタル化されてからだ。また、音声録音・編集技術が個人化したのは(音響録音再生編集テクノロジーが消費者のものとなったのは)、PCにCDドライヴが取り付けられて、人々が、音響をデジタル・データとして取り扱って簡単に音響を録音したり編集できるようになってからだ。それは「レコードとしてのCD」から「デジタル情報の容器としてのCD」への移行として語ることが出来るだろう。