2009年9月30日水曜日

文房具としての蓄音機

1.文房具としての蓄音機


 私たちは音響テクノロジーを、音楽以外の目的のためにも用いる。電話、留守電、ラジオ、テレビ、映画、ヴォイス・レコーダー、自動販売機や切符売り場での案内音声、信号機の音声、等々。私たちは、決して、音楽のためだけに音響テクノロジーを用いるわけではない。音響テクノロジーは「音声」を扱うテクノロジーで、音楽は「全ての音声」ではない以上、それは当然のことだ。
 しかし音響テクノロジーが、そもそも「記録したものを音声として復元すること」を念頭に置いていなかったことは、少しばかり驚きではないだろか。つまり、

1.音響記録複製テクノロジーは、そもそもは音声を視覚的図形として記録するテクノロジーとして登場した。
2.そしてまた音響記録複製テクノロジーは、ある種の文房具としても受容されていた。

 音響記録複製テクノロジーは、(記録したものを音声として復元できるようになった後もしばらくは)音声を(「音声そのもの」ではなく)「文字」のように書き留めて記録するテクノロジーとして、ある種の文房具として(も)受容された。(音響メディアと「書記」との関連については、Gitelman1999, Gitelman2003が示唆に富む。)

事例1


 音響記録複製テクノロジーの「起源」は、1857年(に特許申請された)スコットの「フォノトグラフ」だ。これは、空気振動を視覚的な図形に記録する装置で、いわば地震計のような装置だ。フォノトグラフが記録した図形を視覚的に研究することで、音声の科学研究に貢献することが想定されていた。つまりフォノトグラフはある種の実験器具だったわけだ。しかし(あるいは、だからこそ)これは、その図形記録を音声として復元するメカニズムは持っていなかった。フォノトグラフは(直接的な影響関係はあまり無いようだが)、後の19世紀後半の音響テクノロジーの「起源」である。音響記録複製テクノロジーは、そもそもは音声を視覚的図形として記録するテクノロジーとして登場したわけだ。

事例2


 また、音声記録を音声として復元する機能を初めて実現した(それゆえ、常識的には「レコードの発明者」とされる)エジソンの「フォノグラフ」も、発明当初は、音楽のため(だけ)に使われる道具とは考えられていなかった。フォノグラフを発明した翌年、エジソンは、フォノグラフを商品として売り出すために10個の利用法を考えているが(エジソン1878、細川1990、ジェラット1981など)、それらは基本的には、(速記者やタイピストの代わりとなる)口述記録機械(口述の記録と再生)としての用途だった。

フォノグラフの用途:10項目


以下は、エジソンが考えた、フォノグラフが人類に益する10項目である。確かに音楽の再生機としての用途も念頭に置かれているが、口述の記録と再生がほとんどだと言えよう。

1. 手紙の筆記とあらゆる種類の速記の代替手段
2. 目の不自由な人のための音の本
3. 話し方の教授装置
4. 音楽の再生機
5. 家族の思い出や遺言の記録
6. 玩具
7. 時報
8. 様々な言語の保存装置
9. 教師の説明を再生させる教育機器
10. 電話での会話の録音機

 元のエジソンの記事は1878年の『ノース・アメリカン・レビュー』に掲載された「フォノグラフとその未来」というタイトルの記事(エジソン1878)(月尾・浜野・武邑2001:81-88)。

事例3


 文房具としての蓄音機は、20世紀以降もしばらく続いていた。オフィスで使われる仕事道具として、速記者を助けるための事務用器具としてフォノグラフを宣伝する広告映画が、1910年にもまだ作られていた。このYou Tubeの映像は、エジソン社の広告映画として有名ななものである。あるオフィスで、そこで働いている人々がうんざりして疲れている様子が描かれる。どうやら、タイピスト/速記者への指示が口頭だけではうまく伝わらずうまく書類が作成できないので、5時を過ぎても仕事が終わらないらしい。そこにエジソン社の営業マンがやって来る。エジソン社のフォノグラフを使えば簡単に口頭で指示を録音できる。また、タイピスト/速記者に録音済みシリンダーを渡しておけば、彼女は、こちらを煩わせずにシリンダーを何度も聞き直して正確かつ迅速に文字起こしができるし、彼女もそのほうが仕事を進めやすいだろう。つまりはエジソン社のフォノグラフを使えば、社員全員が仕事を能率的に速く終えられてみんな幸せになる、という広告だ。

20世紀には既にフォノグラフは音楽のためのメディアとして受容され始めていた。しかし他方では、音響記録複製テクノロジーは、声を書き留めて文字に直す「速記者」のような存在としても理解されたのだろう。フォノグラフは、「自動速記者」(とでも言うべき機械)として、「文字」のように書き留めて記録するテクノロジーとしても理解されたのだ。

事例4:『ドラキュラ』の事例


 あるいは、文房具としての蓄音機が登場する事例として、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(1897)をあげておきたい。小説『ドラキュラ』は、全編が登場人物の誰かの日記や手紙で構成されており、登場人物の一人であるイギリスの精神科医ジャック・セワードは、蝋管型蓄音機を文房具として常用しており、自分の日記を吹き込んでいる。その蝋管型蓄音機に吹き込まれた日記をこの小説のヒロインであるミナ・ハーカーがタイプ文書に打ち直したものが、この小説の一部となっている。
 文房具としての蓄音機の機能を重視して小説『ドラキュラ』を解釈しているのが、武藤浩史『「『ドラキュラ』からブンガク』(武藤2006)である。武藤2006は、この小説における「蓄音機」の意味を、過剰に、生産的に、そして魅力的に、解釈したものである。武藤2006に従えば、「蓄音機」はいわば真実を記録する文房具なのだと言えるかもしれない。
 武藤が重視するのは、1.「最初に蓄音機に吹き込んだ日記」を「タイプ文書に打ち直したもの」が小説の一部となっていること 2.小説の最後に、全てが終わって7年後にジョナサン・ハーカーが書いた「付記」の内容 である。そこには次のように書かれている。
「…私は長いこと金庫にしまっておいた当時の文書を、そのとき久しぶりで取り出して見た。読み返してみて驚いたことは、記録が構成されているこれだけの山のような材料の中に、これこそがだた一つの真正な記録だというものがないことであった。あとのほうのミナとセワードと私のノート・ブックと、ヴァン・ヘルシングの覚書を除いて、あとはタイプで打ったものばかりである。…」
つまり、タイプ文書は「真正な記録」ではないという言葉が、最後の最後に述べられているのである。言い換えれば、小説『ドラキュラ』は、最後の最後に、タイプ文書よりも音声情報こそが真正だという主張がなされる小説であり(33-35)、それゆえ、ミナが蓄音機の日記をタイプライターで文字起こしするのも、蝋管に録音された「秘密」を隠蔽しようとする行為として解釈されるのである(30-33)。そこで隠蔽されていると解釈(推理)されるのは、例えば、ブラム・ストーカーが私淑していたオスカー・ワイルドを擁護しようとする同性愛的傾向であったり、アイルランド人であるブラム・ストーカーによるイギリス批判である。
 今、これらの解釈の是非を問う準備はない。ただ、「(蓄音機に記録された)音声」が特権視されていることを確認しておきたい。武藤は、小説『ドラキュラ』では「(蓄音機に記録された)声」の特権視は、(視覚文化としての)近代批判(あるいは近代の対抗文化としての聴覚文化構築)という意図がある(35-40)と解釈している。文房具としての蓄音機は、「真実」や「秘密」を記録するものだったのかもしれないのだ。

(この映像の中ほどで、文房具としての蓄音機が見えます。)

2.文房具としての蓄音機の消滅と復活


 武藤2006:31によれば、蓄音機が音楽鑑賞用機械として家庭に普及し始めたきっかけは、小説『ドラキュラ』出版の翌1898年にW.B.オーウェン(UKグラモフォン社長)がロンドンの新聞に大広告を打って衝撃を与えたこと、である。つまり小説『ドラキュラ』執筆時は蓄音機普及前夜だったわけだ。
 もう少し詳しく検討すると、音響記録複製テクノロジーが音楽鑑賞装置としての存在感を持つようになるのは、1880年代後半から1890年代前半にかけてのようだ。80年代後半に、ベルとティンターのグラフォフォン(1885)、それを受けて改良されたエジソンの改良型フォノグラフ(1888)、あるいはベッティーニのマイクロフォノグラフ(1889)が登場し、1887年には発明されていたベルリナーの円盤型グラモフォンがようやく事業化されるのが、1894年である。とはいえ同時に、20世紀以降もなおしばらくは、文房具としての蓄音機が宣伝されていたわけだ。文房具としての蓄音機と音楽メディアとしての蓄音機は、数十年は並存していた、と考えるべきだろう。とはいえこの並存は、遅くとも1929年までには消滅したはずだ。というのも、1929年にはレコード業界の覇権争いに負けてエジソンがレコード業界から撤退し、個人でも録音できるフォノグラフが市場から消滅するからだ。

 その後、音響録音テクノロジーが一般大衆の手に戻り、録音済み音楽ソフトを個人が複製したり、『ツイン・ピークス』のクーパー刑事のように自分の声を録音するテクノロジーを、消費者が再び手に入れるまで、磁気テープの登場を待たねばならない。文房具としての蓄音機には、1930-40年代に、およそ20年以上の技術史的ブランクがあるのだ。

2009年9月25日金曜日

1.音楽と「レコード」-3.聴き方の変化

1.レコードと音楽の聴き方の変化


 音楽記録済みのレコードが商品となることで、「音楽」の聴き方は変化した。私たちは、家庭で、時には一人で、何度でも繰り返し好きなときに好きな音楽を聴けるようになった。家庭での個人的な音楽消費にはまだせいぜい100年程度の歴史しかないのだ。
 だから、レコードは音楽を「大衆化」したのだ、と言って構わないだろう。レコードが登場することで、音楽(西洋芸術音楽に限らず、あらゆる種類の音楽)に触れることができるようになった人口は間違いなく拡大しただろうし、生演奏で聞くことが難しい音楽(あまり演奏されない珍しい曲や時代的に古くてほとんど誰も省みないような音楽や遠い国の音楽等々)にも録音資料を通じてアプローチできるようになった。また、レコード・テクノロジーはそもそもポピュラー音楽に適したテクノロジーだったとも言えよう。というのも、初期のSPの片面の再生時間はせいぜい3-4分だったから、片面の再生が終わるたびに盤を交換しなければいけないクラシック音楽よりも、一曲を3-4分ですませることができる音楽のほうが都合が良いからだ。それにレコード・テクノロジーを使って音楽を楽しむには、楽譜を読んで自分で楽器を演奏する技術は必要がない。そんな文化資本を持たない人々でも音楽を楽しめるレコード・テクノロジーは、本来的に音楽を大衆化させるテクノロジーだったと言えるだろう。

2.家庭での音楽消費


 かつて音楽はどこにでもあるものではなかった。コンサート・ホール、宮殿、街の酒場、街角、等々の様々な場所にあるものだったかもしれないが、どこにでもあるものではなかった。少なくとも、どの個人の家庭にも常に音楽があるということはなかった。
 個人の家庭の中に入り込んできた音楽として、良家の子女が楽譜を購入して自ら演奏する音楽をあげることができる。これは19世紀に楽譜出版産業と楽器産業が新しい展開を見せた頃に登場したものだ。ピアノが大量生産されて普及し、職業的演奏家ではない人間でも家庭で演奏して楽しめるように、演奏しやすく簡単に書き直された簡易版演奏楽譜が出版されたのだ。勿論、大量生産されたといってもピアノは高級品だったし、ピアノを家庭に置いて演奏できるためにはそれなりの生活の余裕が必要だった。娘にピアノを学ばせることができるということは、新しい資本主義社会の中で新興ブルジョワが獲得した富の象徴であり、19世紀にはまだまだ家庭の音楽は高級品だったのだ(ピアノの歴史については西原1995を、「楽譜産業」については大崎2002を参照)。
 そうして家庭に定着していたピアノを、練習せずに手っ取り早く鳴り響かせる発明として自動ピアノを位置づけることができる。1889年に発明された自動ピアノは、紙製のロールに人間の演奏情報をパンチ穴で記録し、その穿孔部を空気圧で読み取ることで、ハンマー等を動作させて演奏を再現できる機械だった。自動ピアノは音量漸増減・速度可変機構などが取り付けられて改良されていき、家庭に音楽を共有する装置として合衆国で1920年代まで流行したが、その後、突然その寿命を終えた(渡辺1996と渡辺1997等を参照)。
 自動ピアノはレコードとほぼ同時期に発明されたものだが、両者の機械としての機能とその社会的機能は複雑に交錯するものだった。例えば、自動ピアノは(生楽器を演奏するのだから)再現できる音色は限られているが高音質なのに対し、レコードは、音質は悪くとも、既に存在するあらゆる音を記録してそれを再現するものだった。両者は機械的には単に別のものだったが、いずれも「家庭に音楽を供給する機能」を担うものではあった。そもそも自動ピアノをはじめとする自動演奏機械の歴史は、オルゴールや手回しオルガン以前の古くまで遡るもので、当初は自動ピアノの方が社会的には普及していった。しかし家庭に音楽を供給する機能は、自動ピアノよりもレコードやラジオに受け継がれ、やがては19世紀後半に発明された新しい音響テクノロジーは、音楽文化を根底から覆すことになったのだ。

3.「聴取モード」の変化


 記録された音楽を家庭で個人的に何度も聴くことができるようになり、どうなったと言えるか?
 音楽を深く聴くモードと軽く聴くモードの両方が行われるようになったと言えるのではないか。前者については、反復聴取を行うことで、それまで聴き取ることができなかった音楽全体の構造を把握するような「構造的聴取」(アドルノ1999b)が容易になったし、記録されなければ気づかなかっただろう音響の細部に集中する聴取が可能になったと言えよう。また後者については、いわゆるBGMとしての音楽聴取の誕生をあげることができよう(ランザ1997)。音楽を聞き流すという贅沢はそれまでもあっただろうし、聞き流される音楽がレコードに記録されたものである必要は無い。すでに1880年代から90年代にかけて、電話回線を通じて音楽を家庭に送信するというサービスが実用化されており、わざわざコンサート・ホールに行かずとも家庭で音楽を聴くことができた(吉見1995)。とはいえ、自分の好きな音楽を自分が好きな時に聴き直すためには、電話線であろうと無線であろうと放送される音楽ではなく、レコードに記録された音楽が必要だ。所有していて何度も聴き直せるからこそ音楽を聞き流すという贅沢が大衆化するには、音響を記録して複製する、「レコード」が登場する必要があったのだ。

2009年9月24日木曜日

音響を直接操作したいという欲望

1


自分の意のままに音を操りたい。
古今東西、人は様々な機会にそう考えてきたに違いない。たぶん。

声を出して誰かに話しかける、遠くにいる人に呼びかける、何かに驚いて声を出す、一人大声で夜空に叫ぶ、等々。
ほとんどの人間は声を使う生物だから、人は日常的に声を使う。だからといって人は自由自在にどんな声でも出せるわけではない。口や喉の形は決まっているのだから出せる声には制限がある。(何代目の)江戸家猫八でも出せない音はあるし、ヴォイス・パーカッションがある種の「ワザ」なのは、それが、声を使って出すのは難しい種類の音を声を使って出すからだ。「声」は、自由自在に音を扱うための完璧なツールではない。

あるいは人は、音を扱うために「楽器」を使う。声と比べた「楽器の利点」は明確だ。「楽器」は、「声」では出せない音域の音や「声」では不可能な音響変化(リズムや音高変化)を作ることができる道具だ。楽器は、声では出せない高い/低い音を出せるし、声では不可能な音の急激な変化や速いパッセージを演奏することができる。とはいえ勿論、「楽器」では出せないが「声」なら出せる種類の「音」もたくさんある。楽器も声も人間が音を使うためのツールだけど、万能じゃない。

あるいは人は、意のままに音を操るためのツールとして「楽譜」を発明した。人は、音を視覚的な記号に変換して「書くこと」で、音を意のままに操ろうとするようになった。西洋芸術音楽に限定されるかもしれないけれど、人は、音を視覚化して記号に変換することで、音響操作能力を拡大しようとした。そう考えてみよう。

あるいは「音を意のままに操ること」とは「音を手にとるように自由自在に操ること」だと考えてみよう。
音を「手にとるように」すること。
と聞いて、中川の頭に瞬時に浮かぶのは、「コエカタマリン」と『はじめ人間ギャートルズ』の「叫び声」だ。のび太が「ワ」の字が大好きなのは「ワ」の字は遠くに飛んでいく時に乗りやすいからだし、『はじめ人間ギャートルズ』では、とうちゃんの叫び声は石になって遠くにいるマンモスを倒せたけれどゴンの声は弱かったので倒せなかった(というお話があったような気がするけれどあまり良く覚えていない)。どちらにしろ、発せられた声は物質化することで手で扱えるものになった。「音を物質化して物質化した音を操ること」で「音を手に取るように自由自在に操ること」は可能になるのだ。とはいえ現実に「音を操作するために音を立体的に物質化する」という試みがあったのか、あるいは今日ではあるのかどうか、知らない。たぶんなかったし今でもないと思う。今日のテクノロジーを用いたヴァーチャル・リアリティの中でなら可能な気はするが、実用化された事例は知らない。

そもそも「頭の中で自由自在に音を思い描くこと」なんか不可能で、人は何かの「道具」を使わなければ音を「想像=創造」することは不可能だ。(「思考を言語という道具を使って表現する」のではなく、「言語を使うことで初めて思考できる」ように。)なので、人は、音を操作するためには何かの道具を使う必要があった。

2


そのための手段の一つとして、(「音を物質化する」のではないにしても)「音を視覚的な対象物とすること」をあげることができる。これは、音を視覚的な記号に変換しようとする「楽譜」とは違う場所で、18-19世紀の「音の視覚化と対象化」を志向していたパラダイムの中で夢見られていたことだった。そしてこのパラダイムこそが、19世紀以降の新しい音響テクノロジーを生み出したものだった。

「音の視覚化と対象化」というコンテクストとはどのようなものか?これについては、Sterne2003が詳しい。
スターンによれば、18-19世紀にかけて耳医学・生理学・音響学といった領域でパラダイム変化が生じた。そこでは、耳や「聴覚」や音が、視覚的に知覚されて操作される対象となった。つまり、耳の諸機関の部分構造やメカニズムが理解されて医療の対象となり、聴覚神経を通じた音響の伝達と知覚のメカニズムが研究されるようになり、音響の大きさや長さや「波形」が(例えば、板の上に置かれた砂を音響振動が一定の図形-クラドニ図形-へと変換することを通じて)視覚的な記号へと変換されることで、音響の物理的性質が研究されるようになったのだ。
例えば、1850年代にレオン・スコットが考案したフォノトグラフ
これは、ラッパ(フォノグラフで言えば送話口にあたる部分)に取り付けられた振動膜が空気振動としての音を捉え、膜に取り付けられた針(豚の剛毛)が、その振動膜の振動を、油煙紙(あるいは円筒に塗られた油煙)に波形として記録する機械だった。つまり音声を波形として油煙紙に記録する地震計のような装置であり、音(空気振動)を視覚的な図形へと変換して音響を科学的に計測するための道具として考案されたものだ。このフォノトグラフは、ほとんどの音響メディア史では、1877年にエジソンが発明したフォノグラフと直接的な関係はないが先駆的な、しかしまだ再生メカニズムを持っていない機械として、「音の記録装置の源流」(岡1986:14)として位置づけられる(他にChanan 1995: 23: 早坂1989;Welch and Burt 1994: 6など)。とはいえ、「音の視覚化と対象化」というコンテクストの中では、フォノトグラフは(「新しいパラダイムの起源」となると同時に)「音の視覚化と対象化というコンテクストの帰結」として位置づけられるものだ。

「音の視覚化と対象化」というコンテクストこそが、1877年のエジソン以降の音響記録複製テクノロジー(音響を視覚的な記号に変換してその変換された記号を音響として復元するテクノロジー)を生み出した。この後も、音を直接的操作しようとする欲望は、この「音の視覚化と対象化」への志向と絡み合いながら展開していくことになる。またポストを改めてまとめておきたい。
(このブログは、企画中の音響メディアに関する共著の一部の下書きに使うつもりで書いています。なので問題意識や構成が十分慣れていなかったり、細かな事項のチェックが不十分なままのものもありますが、まずは、ざっくりと共著の構想を固めるために、書ける部分を書いています。なので、何か間違いがあったり、書いていない部分に何かご意見やご感想がありましたら、是非ともお知らせください。できるだけ早い段階で「完成版」を投稿したいと思ってます。)

2009年9月18日金曜日

1.音楽と「レコード」-2.「レコード」の浸透

1.1920年代の音響文化:電気録音の開始


 20世紀後半の音響文化の基盤は1920年代に成立したと考えておきたい。1922年にラジオ放送は正式に始まった。1927年にセリフと音響が映像と同期するトーキー映画(『ジャズ・シンガー』)が初めて公開された。また1925年以降、電気録音で録音されたレコードが発売されるようになり、レコードの音質が飛躍的に向上した。ラジオ放送、トーキー、電気録音、いずれも1920年以前に試みられていたことではあるが、本格的に行われるようになったのは1920年代以降である。ラジオは音声放送メディアを生み出し、トーキーは映像と音声が同期する動画メディアを生み出した。そして電気録音は、それまでとは格段に異なる新しい電気音響の世界をもたらした。
 1920年代にはその他にも多くの後代に大きな影響を与えたものが生み出されているが、音響テクノロジー史にとっては、録音の電化が最も決定的な出来事だったと言えるかもしれない。電気録音が可能になったのは、1905年にリー・ド・フォレストによって三極真空管が発明されたからだ。真空管のおかげで音響を電気的に増幅することが可能となり、おかげで、それまでのアコースティック録音では記録できなかった音域と音量を持つ音を録音できるようになった。真空管の実用化によって、電気音響という新しい世界が生み出されることになったのだ。

2.レコード技術の革新


 先に触れた円盤化、そしてこの電気化の他に、レコード・テクノロジーにおける大きな革新は、LP化とステレオ化である。これらの革新によって、1950年代以降に「ハイ・ファイ」信仰が加速された。1950年代に、記録された音響が記録時に出された音と同じもの(あるいは限りなくそれに近いもの)として再生される、という理想が熱狂的に追求される「ハイファイ」熱が起こったのだ。
 まずLP化について。1948年6月21日にコロンビア・レコードが、片面23分のLP(ロング・プレイング・レコード)を発表した。このLPでは、演奏時間が大幅に延長され(従来の約5-6倍)、音質も大幅に向上した。もはや人々はクラシック音楽の曲の途中で盤を入れ替える必要はなくなった。電気録音も重要な革新ではあったが、LPは、従来の蓄音機では再生できない全く新しいフォーマットだという点では、電気録音以上にレコード史上で画期的な事件だったと言える。同時期、1949年にRCAヴィクターがコロンビアに対抗して出した45回転レコードは、コロンビアのLPにとってかわる新しいフォーマットとはならなかったが、小さくて丈夫だったしオート・チェンジャー機構に優れていたので、「ドーナツ盤」として、ポピュラー音楽の領域で「シングル」をリリースするのに適したフォーマットとして、定着していった。
 またステレオ化について。ステレオ・サウンドは両耳で聞かれた音源を再現しようとするもので、空間的な広がりと明晰さと現実感を再現するものだった(「ステレオ、両耳聴」の起源については福田2008、Sterne2003参照)。初めてステレオ・サウンドを本格的に家庭に導入したのは、1950年代の音楽記録済みの磁気テープだった。音楽記録済み磁気テープは1950年に発売されていたが、1954年にはステレオ・ミュージック・テープ第一号が発売された。ステレオ方式で再生可能なLPが販売されるようになるのは1950年代後半である。1953-54年から一部のレコード会社は将来を見越してステレオ・マスター・テープへの録音を開始していたが、1957年にステレオLP方式(従来のLPと同じ録音時間を保持しつつ、一本の溝に二つのチャンネルを刻みつける方式)が発表された。1958年9月までには、合衆国のレコード会社のほとんどが市販用ステレオLPを販売するに至った。
 LP登場とほぼ同時期にハイ・ファイ信仰が高まり始めた。LP(とそして後にはステレオ録音)によって音響的可能性が向上したので、ほとんどのジャンルの音楽の録音が、コンサートで聴ける音に近いリアリティを持つものとして理解されるようになった。「ハイ・ファイ」という概念の起源は19世紀まで遡ることができるが、アンプやスピーカーなどレコードを再生する装置に対する関心が急激に高まったのは第二次世界大戦以降である。はじめは1949年以降にアメリカの幾つかの都市で開催されるようになったオーディオ・フェアに「オーディオ・マニア」たちが集まるだけだったかもしれないが、すぐにハイ・ファイ信仰は機械いじりには興味のない人々にも波及し、彼らも、家庭で聞く音楽がコンサート・ホールやオペラ・ハウスにおける生の音楽の演奏にできるだけ近いことを望むようになった。すでに録音は「生演奏」の代わりを務め始めていたが、その傾向ますます推し進められていったのだ。

3.音楽産業としてのレコード産業の展開


 アメリカのレコード産業は1910年代に黄金時代を迎えて1921年にいったんピークに達した後、1920年代には徐々に落ち込んでいった。1921年には初めて1億600万ドルという大台にのったレコードの売り上げは、1925年には1921年のほぼ半分の5900万ドルにまで減っていた。最大の原因はラジオの急速な普及であり、電気録音による音質の改善とレパートリーの拡大は、そうしたレコード業界に対するカンフル剤として機能することが期待されていた。
 電気録音の登場でレコード業界は多少は回復したが、1929年10月24日に大恐慌を迎え、どん底の1930年代を迎える。(例えば、1929年度には7500万ドルまで回復していたのが、30年度には一挙に40%近く落ち込み4600万ドルに、31年度には1800万ドルに、32年度には1100万ドルまで落ち込んだ。)その後、ジュークボックスの流行(それに伴う、レコード産業におけるクラシックからポピュラー音楽へのレパートリーの移行)、音質の向上などのおかげで、1930年代後半にようやくアメリカのレコード業界は不況から脱し始める。そして第二次世界大戦を経て、戦後、LPとステレオ・サウンドが登場するのだ。
 音楽産業としてのレコード産業について考える時、この時期に起きた興味深い事件に、1942年にアメリカ音楽家組合(AFM)が行ったストライキがある。1942年にAFMは(というよりも、会長ジェイムズ・ペトリロ個人が半ば強引に)、レコードがジューク・ボックスやラジオ放送などに使われて音楽家の生活権が脅かされていることを理由に、レコード印税と演奏料の値上げをレコード会社各社に要求し、受け入れられない場合は7月31日以降録音を行わないという声明を発表した。各社は期限までに大急ぎで録音ストックを作ったが、この無期限ストにいつまでも対応することは不可能で、まず初めに1943年9月にデッカがペトリロの要求をのんだ。1944年にはコロンビアとRCAヴィクターもペトリロとの和解に応じ、27ヶ月に渡るAFMのストは終焉した。このストライキは、レコード産業の着実な発展を阻害する時代錯誤な事件と捉えることもできるだろうし、レコードという新しいテクノロジーが、関連諸領域における利益分配構造が変わって、対立構造がある種の軟着陸へと変わった事件と考えることもできるだろう(後者は、増田・谷口2005における解釈)。いずれにせよ、このストライキがはっきり示していることとして、遅くとも1940年代にはレコードに記録された音楽が人間が(生)演奏する音楽の代わりを務めるようになっていたこと、を指摘しておきたい。でなければ、演奏家たちがストライキを起こす必要はなかったはずだ。音楽産業としてのレコード産業は、着実に発展し、定着していたのだ。

2009年9月11日金曜日

1.音楽と「レコード」-1.「レコード」の誕生

1.「レコード」は音を記録し、音楽を商品にした。


 音楽が小売業者が扱う商品になったのは、19世紀末に「レコード」が発明されたからだ。それまで、音や音楽は生じた瞬間だけその場に存在してその後は消えるものだったし、他の場所では聴くことができなかった。しかし1877年にアメリカ人のトマス・エジソン(Thomas Edison)が「フォノグラフ(円筒型蓄音機)」を発明して以降、音と音楽は物理的に記録されて復元されるものになった。こうして「レコード」以降、音楽は記録された媒体で小売される、小売商品になったのだ。

 エジソンが発明したフォノグラフは、円筒に巻きつけた錫(すず)箔に記録した振動を音として再現できる機械だった。これは個人が音を録音することができた。また1887年には、エミール・ベルリナーなる人物が「グラモフォン(円盤型蓄音機)」という機械の特許を申請した。これは円盤型の機械で、円盤上に記録された振動を薬剤で固定して凸板を作り、凸板を用いて作った複製から音を再現できる機械だった。グラモフォンを使って個人は録音できなかったが、円盤型のレコードは複製の制作が簡単だったので、記録された音楽を売買するレコード産業においては、円筒型ではなく円盤型が普及することになった。円盤型のグラモフォンのおかげで、レコード産業は音楽産業として発展していくことになったと言えるだろう。

2.「レコード」は初めから音楽のための機械ではなかった。


 とはいえ、「レコード」は、初めから音楽を記録して再生するための道具として発明されたわけではない。
 まず、エジソンの「フォノグラフ」には先駆的な発明があった。フォノグラフが発明される30年前にフランス人のレオン・スコットが発明した「フォノトグラフ」という機械だ(Sterne2003, WP1-4参照)。これは、音を記録する機械だったが音を再生する機械ではなかった。「フォノトグラフ」は、「phon + auto + graph」という名前の通り、音声(phone)を自動的に(auto)書き写す(graph)装置で、音を再生するための機械ではなかった。そもそも「フォノトグラフ」は、科学者たちが、空気振動という物理現象を視覚的に記録するための機械として考案されたものだった。これは原理的には後のフォノグラフの先駆的な装置だったが、記録された波形を実際に鳴り響く音へと復元するメカニズムは持っていなかった。「フォノトグラフ」にとって重要だったのは音を視覚的な記録として残すことだったので、視覚的な記録をさらに聴覚的な音として復元するメカニズムは不要だったのだ。
 また、エジソンの「フォノグラフ」は、はじめは音楽のために使われる道具とは考えられていなかった。例えばエジソンは、フォノグラフを商品として売り出すために10個の利用法を考えているが(エジソン1878、細川1990、ジェラット1981など)、それらは基本的には(速記者やタイピストの代わりとなる)口述記録機械(口述の記録と再生)としての用途だった。

3.音楽産業としてのレコード産業の成立:円筒と円盤の対立


 初期のレコード産業は必ずしも「音楽産業」ではなかった。「レコード」が音楽鑑賞媒体としての存在感を示し始めたのは1890年代以降である。エジソンをはじめ、多くの発明家、実業家たちによる様々な事業化が試みられていたが、音楽産業としてのレコード産業が確立して「レコード」が音楽の容器としての存在感を示し始めるまで、フォノグラフが発明されてから少なくとも10年以上かかったのだ。また、私たちが普通「レコード」という言葉で思い浮かべる音楽記録済みレコードは、1887年にベルリナーが発明した「グラモフォン(円盤型蓄音機)」である。グラモフォンも、発明後に改良が重ねられて1895年にベルリナー・グラモフォン社が設立されるまでは本格的に事業化されなかった。
 エジソンはレコードは「発明」したかもしれないが、後に主流となった円盤型レコードを発明したわけではない。円筒型のフォノグラフには自分で録音できるという利点があったが、円盤型のほうが大量生産が格段に容易だったので、記録済み音楽を売買するレコード産業においては円盤型が普及していった。エジソンは円筒型のレコードに拘り続けたが、1902年にはエジソン社ともう一社しか円筒型は生産しなくなり、1929年には円筒型レコードの生産を中止してレコード業界から撤退した。録音機能がなかったグラモフォンこそが後の「レコード」の直接的な先祖となったのだ。

まとめ


 あるテクノロジー、ある技術が発明された後、それがすぐさま現在のような形で使われるようになることはあまりない。「レコード」もその一つで、初めから音楽のための「メディア」として発明されたテクノロジーではない。また、あるテクノロジー、ある技術が、たった一人の天才によってゼロから発明されるということもあまりない。「レコード」に類似した技術は既にエジソン以前に存在していたし、「レコード」は、エジソンのフォノグラフよりも、後のベルリナーのグラモフォンこそが直接的な先祖である。テクノロジーと、それが社会的に定着した形態である「メディア」は異なるのである。

「音楽とテクノロジー」について

 学生は、大学のレポート執筆時の典拠に使わないように!あくまでもこれは「とっかかり」にしか使ってはいけません!

このラベルがつけられた文章について


 「音楽とテクノロジー」というラベルがつけられた記事の文章は、2008年8月に書いたものだ。一年前の夏休みに、私は、結局は陽の目を見なかった共著のために、19世紀以降の音響テクノロジーは音楽を大衆化して個人化した、という趣旨の物語を作り出すことにした。安易な物語かもしれない。しかし私は、今の音楽や音楽を取り巻く今の状況や音響テクノロジーなるものの性質と歴史について考えるためには、まずは乱暴で安易であろうとも大まかな枠組みが必要だ、と考えていた。だとすれば安易でも良いし安易なほうが分かりやすくて良いかもしれない。それに私はその頃、日本語で簡単に参照できるレコード史が、いまだに基本的にはジェラット1981しかない状況に驚いていた。もちろんジェラット以降も幾つかのレコード史や音響テクノロジー史は書かれていたのだが、それらはただの技術史でしかなかったり、あるいは、あまりにも哲学的な歴史記述であるように思われたのだ。私は、自分が音響テクノロジーについて考える時に使いやすい、分かりやすい準拠枠が欲しかった。だから私は自分でそれを作ることにした。
 とはいえ、この文章を書く直接的な理由だった共著の話は頓挫した。私のテクノロジーの話を補完するはずの「音楽の話(20世紀のポピュラー音楽の話)」が書かれなかったのだ。これでは「共著」にならない。しかし書いたものを眠らせておくのはもったいないし、今でも、乱暴で安易かもしれないが、音響テクノロジーについて語るための大まかな枠組みが必要な状況には変わりがないと考えている。昨年書いたものをブログで公開しておこうと思った所以である。公開に当たり、明らかに誤った情報以外の内容は修正しないが、下書きの段階ではきちんと整備していなかった参考文献情報を記しておく。

 誰かの役に立つかどうかはあやしいけれど、こういう考え方もあるのだ、と思ってもらえれば幸いです。あと、参考文献をたどっていくきっかけになってくれれば幸いです。てきとーに楽しんでください。

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参考文献について


 「音楽とテクノロジー」の文章の中で、特に典拠や書誌情報を記さないまま書いている事項は、基本的には全て、以下の文献に依拠しています。まず「レコード史の基本1」の文献をチェックして大まかな流れと記述事項を決定した後、「レコード史の基本2」の文献をチェックし、個別事項に関して個別の専門文献をチェックする、という流れで執筆しました。

レコード史の基本1
Chanan 1995, Eisenberg 1987, 細川1990、ジェラット1981、, キットラー2006、Welch and Burt 1994

レコード史の基本2(1の補足として使用)
Kenny 1998, Millard 2000、岡1981、岡1986、リース1969、山川1992、山川1996

聴覚文化論の基本
Sterne2003, Bull and Back 2003, Drobnick 2004, Erlmnn 2004, Morton 2000, Smith 2004, Thompson 2002, Vanini 2009など

文献の書誌情報はリンク先の文献目録を参照してください。

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2009年9月9日水曜日

空に音はあるか?

空に音はあるか?
空に耳をすませば、中学生たちが歌う「カントリー・ロード」以外にも音は聞こえるのか?
詩人の問いかけに対して、身も蓋もない言い方をしてみれば、それは「音」と「空」の定義による。ただ、身も蓋もない言い方をしたつもりでも、この問題についてちょっと考えてみるだけで、「音」という概念はけっこうあやふやなことが分かる。
「音」という概念に「電気信号」概念を関連させるかどうかで、空には音があったりなかったりするのだ。

1.「音」をあくまでも可聴域内の音波(20Hz~20000Hz程度)と考える場合
この場合、空に音があるかどうかは、「空」が音の伝達媒体(空気)を含むかどうかで決まる。つまり、空の中でも空気を含まない部分には音もない。
その「空」が空気を含むかどうかを調べるのは大変だろね。

2.頭の中で想像しただけの「音」も「音」として認める場合
物理的な存在論的基盤を持つかどうかに関わらず「音」が存在するとすれば、そりゃあ、音はどこにでも存在する。

世界中の人々の心の中には常に未来への希望が溢れたファンファーレが流れているのかもしれないし、僕の心の中では最近は常に昨日聞いたデヴィッド・バーンの歌声が流れているし、男と女の間には深くて長い河が流れているのかもしれない。

僕も馬鹿じゃないので、「空に音はあるか?」という詩的な問いかけは、文字通りの「音の存在の有無」を問いかけているのではなく、「空にはXの象徴となるような’音’があって欲しい」というある種の祈りのようなものであることは分かる。Xは「私の日々の生活に潤いをもたらしてくれるもの」かもしれないし「私と私の友人との日々の交流に喜びをもたらしてくれるもの」かもしれない。でも、面と向かって話していない時に詩的な問いかけに応えるつもりはない。

「物理的な存在論的基盤を持たない音=頭の中で想像されるだけの音」ってのは、かなりある。
記憶の中の音は、全てそうだ。誰かが何かを話している様子を思い出している時、頭の中で流れている音は、そうだ。あるいは宇宙空間には土星や金星が動く音が流れているのかもしれないし、映画の中では宇宙空間の中でロケットが発信する爆音が流れてるし、マンガの中にはたくさんの描き文字があるからマンガを読んでいる間の僕の頭の中にはたくさんの音が生み出される。
そういうのを「コンセプチュアル・サウンド」と呼んでおけば、1960年代以降のフルクサスの音楽や、1980年代以降のある種のサウンド・アート(美術館に展示できる、実際には音を出さないサウンド・アート)を考えるのに便利だ。でもそれはまた別の機会に考えることにしたい。

3.可聴域外の電磁波を処理したものも「音」として考える場合
この場合、「空」がなんだろうと「空の音」は存在するし、「宇宙の音」も存在する。(要するに、この投稿ではこの情報を伝えたいのだ。)
例えば

例1:ビッグ・バンの音をモデリングしたもの
http://www.astro.virginia.edu/~dmw8f/sounds/aas/sounds_web_download/index.php

例2:宇宙の音
http://www.spacesounds.com/
:ここからは恐竜の音とかも聞けるけど、どうやって作ったのかはわからない。

例3:オーロラの音
http://www-pw.physics.uiowa.edu/mcgreevy/
http://www.auroralchorus.com/
http://members.tripod.com/%7Eauroralsounds/
:「recordings of VLF ”auroral chorus”」はオーロラの電磁波を処理したもの。(今まで一度も確かめられたことはないけど)オーロラが実際に音を発したという報告はたくさんあるが、これはそうではない。。

つまり、「可聴域外の電磁波」でも「電気的に処理され録音された音」として存在することができる。
この場合、「音」の概念には「電気信号」概念が介在している。(介在し始めたのは1920年代らしい。)電気的に処理された信号を「音」として考えているのだから。
(細かな話だけど、「音」概念の歴史的変遷をきちんと調べた人はいないと思う。なので僕もこれ以上はよく分からない。)
とにかく、「音」の表象は変化してきたのだ。だから「空に音はあるのか?」という問いに身も蓋もない答え方をするのは、なかなか難しいのだ。

4.ちなみに1
「音」として電気的に処理された音を認めてしまうと、例えば「蜂の羽音の録音」とは何か?ということがよく分からなくなる。蜂の羽音は可聴域内の音波だけど、同時に可聴域外の音波も発している。なので、その音波=電磁波が録音機器に影響を与えて、録音時に人間の耳には聞こえていなかった「音」も同時に録音されてしまうから。

5.ちなみに2
宇宙空間には、雷とか空電(Sferics)のような自然現象として「可聴域内の電磁波」もある。それらは、媒体としての空気が存在しないので「音」としては存在しないけど、電気信号として拾われると「音」として現象化する。これらの電磁波は、電話とかラジオの発明以後に初めて「音」として現象化した。
この雑音を初めて聞いたのは、ベルの助手で、後のIBMの社長の父親のトマス・ワトソンらしい。電話交換手の多くがこの雑音を聞いたという記録が残っている。

以上、2004-2005にUC, DavisでDouglas KahnのHistory of Sound in the Artsの授業(1/13/2006: Nature: environmental forces and animals)で、オーロラの音と蜂の音を聞いて考えたことを、missourifeverさんのはてなdiary(5/29/2006)のコメント欄に書き込んだものです。
トマス・ワトソン関連の情報は、その授業でDougがくれたDougのドラフトを参照しました。このドラフトがパブリッシュされたのが、これみたい。→参考:Douglas Kahn: "“Radio was discovered before it was invented,” Relating Radio: Communities, Aesthetics, Access, edited by Golo Fölmer and Sven Theirmann (Leipzig: Spector Books, 2007)."