1.1920年代の音響文化:電気録音の開始
20世紀後半の音響文化の基盤は1920年代に成立したと考えておきたい。1922年にラジオ放送は正式に始まった。1927年にセリフと音響が映像と同期するトーキー映画(『ジャズ・シンガー』)が初めて公開された。また1925年以降、電気録音で録音されたレコードが発売されるようになり、レコードの音質が飛躍的に向上した。ラジオ放送、トーキー、電気録音、いずれも1920年以前に試みられていたことではあるが、本格的に行われるようになったのは1920年代以降である。ラジオは音声放送メディアを生み出し、トーキーは映像と音声が同期する動画メディアを生み出した。そして電気録音は、それまでとは格段に異なる新しい電気音響の世界をもたらした。
1920年代にはその他にも多くの後代に大きな影響を与えたものが生み出されているが、音響テクノロジー史にとっては、録音の電化が最も決定的な出来事だったと言えるかもしれない。電気録音が可能になったのは、1905年にリー・ド・フォレストによって三極真空管が発明されたからだ。真空管のおかげで音響を電気的に増幅することが可能となり、おかげで、それまでのアコースティック録音では記録できなかった音域と音量を持つ音を録音できるようになった。真空管の実用化によって、電気音響という新しい世界が生み出されることになったのだ。
2.レコード技術の革新
先に触れた円盤化、そしてこの電気化の他に、レコード・テクノロジーにおける大きな革新は、LP化とステレオ化である。これらの革新によって、1950年代以降に「ハイ・ファイ」信仰が加速された。1950年代に、記録された音響が記録時に出された音と同じもの(あるいは限りなくそれに近いもの)として再生される、という理想が熱狂的に追求される「ハイファイ」熱が起こったのだ。
まずLP化について。1948年6月21日にコロンビア・レコードが、片面23分のLP(ロング・プレイング・レコード)を発表した。このLPでは、演奏時間が大幅に延長され(従来の約5-6倍)、音質も大幅に向上した。もはや人々はクラシック音楽の曲の途中で盤を入れ替える必要はなくなった。電気録音も重要な革新ではあったが、LPは、従来の蓄音機では再生できない全く新しいフォーマットだという点では、電気録音以上にレコード史上で画期的な事件だったと言える。同時期、1949年にRCAヴィクターがコロンビアに対抗して出した45回転レコードは、コロンビアのLPにとってかわる新しいフォーマットとはならなかったが、小さくて丈夫だったしオート・チェンジャー機構に優れていたので、「ドーナツ盤」として、ポピュラー音楽の領域で「シングル」をリリースするのに適したフォーマットとして、定着していった。
またステレオ化について。ステレオ・サウンドは両耳で聞かれた音源を再現しようとするもので、空間的な広がりと明晰さと現実感を再現するものだった(「ステレオ、両耳聴」の起源については福田2008、Sterne2003参照)。初めてステレオ・サウンドを本格的に家庭に導入したのは、1950年代の音楽記録済みの磁気テープだった。音楽記録済み磁気テープは1950年に発売されていたが、1954年にはステレオ・ミュージック・テープ第一号が発売された。ステレオ方式で再生可能なLPが販売されるようになるのは1950年代後半である。1953-54年から一部のレコード会社は将来を見越してステレオ・マスター・テープへの録音を開始していたが、1957年にステレオLP方式(従来のLPと同じ録音時間を保持しつつ、一本の溝に二つのチャンネルを刻みつける方式)が発表された。1958年9月までには、合衆国のレコード会社のほとんどが市販用ステレオLPを販売するに至った。
LP登場とほぼ同時期にハイ・ファイ信仰が高まり始めた。LP(とそして後にはステレオ録音)によって音響的可能性が向上したので、ほとんどのジャンルの音楽の録音が、コンサートで聴ける音に近いリアリティを持つものとして理解されるようになった。「ハイ・ファイ」という概念の起源は19世紀まで遡ることができるが、アンプやスピーカーなどレコードを再生する装置に対する関心が急激に高まったのは第二次世界大戦以降である。はじめは1949年以降にアメリカの幾つかの都市で開催されるようになったオーディオ・フェアに「オーディオ・マニア」たちが集まるだけだったかもしれないが、すぐにハイ・ファイ信仰は機械いじりには興味のない人々にも波及し、彼らも、家庭で聞く音楽がコンサート・ホールやオペラ・ハウスにおける生の音楽の演奏にできるだけ近いことを望むようになった。すでに録音は「生演奏」の代わりを務め始めていたが、その傾向ますます推し進められていったのだ。
3.音楽産業としてのレコード産業の展開
アメリカのレコード産業は1910年代に黄金時代を迎えて1921年にいったんピークに達した後、1920年代には徐々に落ち込んでいった。1921年には初めて1億600万ドルという大台にのったレコードの売り上げは、1925年には1921年のほぼ半分の5900万ドルにまで減っていた。最大の原因はラジオの急速な普及であり、電気録音による音質の改善とレパートリーの拡大は、そうしたレコード業界に対するカンフル剤として機能することが期待されていた。
電気録音の登場でレコード業界は多少は回復したが、1929年10月24日に大恐慌を迎え、どん底の1930年代を迎える。(例えば、1929年度には7500万ドルまで回復していたのが、30年度には一挙に40%近く落ち込み4600万ドルに、31年度には1800万ドルに、32年度には1100万ドルまで落ち込んだ。)その後、ジュークボックスの流行(それに伴う、レコード産業におけるクラシックからポピュラー音楽へのレパートリーの移行)、音質の向上などのおかげで、1930年代後半にようやくアメリカのレコード業界は不況から脱し始める。そして第二次世界大戦を経て、戦後、LPとステレオ・サウンドが登場するのだ。
音楽産業としてのレコード産業について考える時、この時期に起きた興味深い事件に、1942年にアメリカ音楽家組合(AFM)が行ったストライキがある。1942年にAFMは(というよりも、会長ジェイムズ・ペトリロ個人が半ば強引に)、レコードがジューク・ボックスやラジオ放送などに使われて音楽家の生活権が脅かされていることを理由に、レコード印税と演奏料の値上げをレコード会社各社に要求し、受け入れられない場合は7月31日以降録音を行わないという声明を発表した。各社は期限までに大急ぎで録音ストックを作ったが、この無期限ストにいつまでも対応することは不可能で、まず初めに1943年9月にデッカがペトリロの要求をのんだ。1944年にはコロンビアとRCAヴィクターもペトリロとの和解に応じ、27ヶ月に渡るAFMのストは終焉した。このストライキは、レコード産業の着実な発展を阻害する時代錯誤な事件と捉えることもできるだろうし、レコードという新しいテクノロジーが、関連諸領域における利益分配構造が変わって、対立構造がある種の軟着陸へと変わった事件と考えることもできるだろう(後者は、増田・谷口2005における解釈)。いずれにせよ、このストライキがはっきり示していることとして、遅くとも1940年代にはレコードに記録された音楽が人間が(生)演奏する音楽の代わりを務めるようになっていたこと、を指摘しておきたい。でなければ、演奏家たちがストライキを起こす必要はなかったはずだ。音楽産業としてのレコード産業は、着実に発展し、定着していたのだ。
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